イエス・キリストの生涯-2

イエス・キリストの生涯-2

b. 旧約聖書におけるイエス・キリストの登場:

イエス・キリストは、啓示された三位一体のメンバーです。それゆえ、受肉以降、肉体において出現されたお方であるように、受肉以前にも、神の人格と存在を信者に顕現されたお方なのです(ヘブル1章1-2節参照)。旧約聖書における神の顕現はしばしば「神現」と呼ばれますが、イエスによるものであることが明確に示される旧約聖書の啓示は「キリスト現」と呼ばれます。 三位一体について現在私たちが知っていることの多くは、さまざまな理由から、旧約聖書の時代には意図的に覆い隠されていました[1]。しかし、次の箇所が示すように、旧約聖書における神の多くの出現は、一見したところ父なる神であるかのように思われますが、実際には父なる神を代表するイエス・キリストであったのです。

(37)このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。(38)それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するたである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。(39)こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、(40)「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。(41)イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光(すなわち、イザヤ書6章1-3節の「聖なる、聖なる、聖なる」)を見たからであって、イエスのことを語ったのである。(すなわち、この二番目の引用はイザヤ書6章10節からのものであるため、イザヤ書6章1-10節)。(ヨハネ12章37-41節)

おそらく最も一般的なキリストの顕現は、「主の天使」の出現であり、この場合、「天使」という言葉は天使そのものではなく、キリストの顕現を表現するために用いられています。[2] これは、例えば、出エジプト記 14章19節 では天使が「神の天使」と呼ばれていたり、士師記 2章1-5節では天使が「わたしの契約」について語っていたり、ゼカリヤ書1章20節ではゼカリヤと対話していた主の天使が「主」と描写されていたりします。それとは反対の指示がない限り、創世記第3章でエデンの園でアダムとエバに語りかけた「主なる神」のように、旧約聖書における神の顕現は、キリストの顕現、すなわち、父なる神の代理人であり、三位一体の顕現された位格である私たちの主イエス・キリストの顕現であると理解すべきです。[3] イエスは常に世界の救い主であり、神の救済計画におけるその中心性は、旧約聖書においても新約聖書においても同様に重要でした。しかし、主が真の人間性を帯び、肉体として現れる前は、救済の多くの詳細が隠されていたという事実があります(ルカ24章25-27節; 使徒行伝2章23節, 3章18節, 7章52節, 17章3節, 26章23節; エペソ3章5節, 3章9節; 第一ペテロ1章11節, 1章20節; 参照. ローマ3章25-26節)。


[1] 聖書の基礎:第1部:神学、第II.C項「旧約聖書における三位一体」を参照。<現在翻訳中>

[2] ギリシャ語でもヘブル語でも、私たちが「天使」と訳す言葉は「使者」を意味し、英語から想像されるような「天使のような生き物」という厳密な意味合いを必ずしも持っているわけではありません。

[3] 詳しくは、「聖書の基礎:第1部:神学」のセクションII.C、3、「旧約聖書におけるキリストの出現」をご覧ください。<現在翻訳中>

<-3に続く>

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