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2024年10月13日

イエス・キリストの名前-b-iv

聖書の基本4A-21

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

            4) 枝:  これは本質的にメシヤ的な称号であり、私たちの主を、義をもって世を治めるよう定められた約束のダビデの子孫(イザヤ53章2節; エレミヤ23章5節, 33章15節; ゼカリヤ3章8節, 6章12節参照; エゼキエル17章22節-; ローマ1章3節; 黙示録5章5節も参照)であることを示すものです。初降臨では、主はこの称号を持つ者として評価されませんでしたが(イザヤ11章1節)、再臨において栄光に包まれることになります(イザヤ4章2節[1]。この称号は主にメシア的なものであるため、仮庵の祭りで暗示されているように、勝利のメシアの象徴としての棕櫚の枝が用いられていると理解すべきでしょう[2]。主の初降臨の時の最後のエルサレム入城(詩篇118篇25-27節; マタイ21章8-9節; マルコ11章8-10節; ヨハネ12章13節; ルカ19章37-38節参照)や、黙示録7章9節の棕櫚の枝を手にした殉教者たちに暗示されているように、勝利したメシアの象徴としての棕櫚の枝が用いられていると理解すべきしょう。 最後に、この称号が、主を幕屋や神殿の聖所を照らした七つの枝を持つ燭台「メノラ」の象徴と結びついていると理解することも重要です。 イエスは世の光であり、いのちそのものです(ヨハネ1章4節, ヨハネ14章6節)。 メノラは来たるべきメシアと生命の木とを結びつけるものですから、この「枝」という称号にも光と生命の象徴が反映されていると考えるのが妥当でしょう。[3]

<-22に続く>


[1] 神の家族の概念を一般的に説明するのに、植物の例え話の類似した用法を比較してみましょう。イスラエルはその根(ローマ11章13-24節)であり、私たちはイエス様と有機的に結ばれた枝であり、真のぶどうの木です。(ヨハネ15章1-8節、「ブドウの木」を参照)。「ナザレ人」という用語(マタイ2章23節)は、おそらく(ナザレというイエスの家族の居住地を超えて)主に予言的な意味で用いられていると考えられます。これは、ヘブル語で「ネッツァールnetser(נצר)」という「若枝」を意味する言葉に由来しており、イザヤ書11章1節後半で用いられていることに基づいています。イザヤ書11章1節は、主が育ったこと(すなわち、主がほとんど知られぬままになさった成長)を、芽が伸びていく自然な過程になぞらえて表現しています。イスラエル民族は、メシアが直接、栄光の炎とともに来られることを期待していましたが、福音書から分かるように、イエスが実際に来られた様は想定外でした。それが、イエスが正当に評価されなかった理由の一つです。

[2] 仮庵祭の象徴については、『サタンの反乱』第5部II.8.c.III.7「仮庵の祭」参照

[3] 燭台(メノラ)の象徴については、「サタンの反乱」第一部II.5.b「幕屋の図解」、および「来たる艱難期」第二部B I.2.b「金の燭台」を参照。

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