建築者/長子/神の賜物
イエス・キリストの名前-b-v
聖書の基本4A-22
ロバート・D・ルギンビル博士著
6) 建築者: 三位一体の想定される役割において、父は創造の設計者であり、私たちの主イエス・キリストは、すべてのものに存在をもたらす創造主であり建築者です。また、すべてのものはキリストのうちに存続しています(コロサイ1章16-17節; ヨハネ1章3節; 上記セクションI.1.c参照)。ヘブル人への手紙では、私たちがイエス・キリストの建てられている教会という建物であるとあります。
(3)おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼[イエス・キリスト]は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。(4)家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのもの(すなわち、被造物)を造られたかたは、神である。(5)さて、モーセは、後に語らるべき事がらについて[真理を]あかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、(6)キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。(ヘブル3章3-6節)
7) 長子: [前記I.3.a参照].
8) 神の賜物: この名前はほとんど説明する必要がありません。 父なる神が、私たちが望む永遠の命の代わりに、私たちの身代わりとなって死なれる愛する御子という計り知れない賜物を与えてくださらなければ、私たちは裁きを受けるしかありませんでした。そのためイエスは、私たちの身代わりとなって裁かれるために御自身を捧げることに同意されたのです(ガラテヤ1章4節; エペソ5章2節, 5章25節; 第一テモテ2章6節; テトス2章14節; ローマ3章24節, 6章23節; エペソ4章7節参照)。 私たちが永遠の命を持つことができるのは、神からの輝かしい賜物のおかげです。
言いつくせない賜物のゆえに、神に感謝する。 (第二コリント9章15節)
(15)しかし、[後者であるキリストの]恵みの賜物は[前者であるアダムの]罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの[アダムの]罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。(16)かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果[もたらされた普遍的な死]とは異なっている。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、[普遍的に]罪に定めることになったが、恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。(17)もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして(すなわち、アダムがその罪を子孫に受け継がせることによって)死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを[義認によって]受けている者たちは、ひとりのイエス・キリスト[の犠牲]をとおし、[永遠の]いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。(ローマ5章15-17節)
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、(キリストを信じる)信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。(エペソ2章8-9節)
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