イエス・キリストの独自性-c
聖書の基本4A-16
ロバート・D・ルギンビル博士著
c. その独自性は、イエスが神であり人であることによってのみ、父の使命の義務を果たすメシアとなることができたという事実です:
その(すなわち、イエス・キリストの誕生の)時わたしは言った、「見よ、わたしはまいります(すなわち、生まれた)。書の巻に、わたしのためにしるされています。(詩篇 40篇7節)
イエスは、父なる神が世を救うために世に遣わされた方です(ルカ2章25-35節; ヨハネ3章16節, 3章34節, 7章18節, 7章28-31節, 17章18節; ローマ8章3節; ヘブル3章1節; 第一ヨハネ4章9-10節; 創世記49章10節; イザヤ8章6節; ゼカリヤ2章9節, 2章11節, 4章9節, 6章15節参照)、メシヤ(ヘブル語:メシアック (המשיח) )は、この世に来られ、罪の身代わり(十字架:イザヤ52章13節 – 53章12節)として死ぬことによって世を罪から救い出し、完全な義(王冠:詩篇2篇; 45篇; 72篇; 110篇)の上に君臨することによって悪から救い出すと預言された方です。ギリシャ語で「キリスト」(クリストス Χριστός)と訳されるへブル語のメシアという称号は、「油注がれた者」を意味し、その人が特別な役職に正式に任命されたことを油注ぎによって示すヘブル人の習慣を反映しています(サムエルによるサウルへの油注ぎ:サムエル上10章1節; ダビデへの油注ぎ:サムエル上16章13節; モーセによるアロンへの油注ぎ:出エジプト28章41節)。 これらすべての場合において、この油注ぎは象徴的なものであり、聖霊の油注ぎによる神の力を表しています(民数記11章17-29節; サムエル上10章6節, 10章9-10節, 11章6節, 16章13節)。 イエスは象徴的に油を注がれたことはありませんでしたが、象徴的に私たちの罪で「油を注がれた」のです(イエスのユニークな水のバプテスマの背後にある意味:マルコ10章38-39節; ルカ12章50節を参照下さい)。その後、イエスは直ちに、油注がれた者としてのユニークな地位によって生まれながらに持っていた聖霊の油注ぎの特別で劇的な象徴(すなわち、聖霊が鳩の形でイエスの上に降る)を受けました。
彼の油注ぎの地位は、その例外的な程度(マタイ3章16節; マルコ1章10節; ルカ3章22節; ヨハネ1章32節参照)という点でも、また、聖霊を生まれながらにして持っていたという点でも、また、地上の使命の遂行における御父の喜びを示すという意味でもユニークなものです。(マタイ3章17節; マルコ1章11節; ルカ3章22節; マタイ17章5節; マルコ9章7節; ルカ9章35節; ヨハネ12章28節参照)。 それは、1)神人だけが人類を贖う罪の担い手になることができ、2)神人だけが贖われた人類を永遠に支配する御父の摂政になることができ、3)神人だけが大祭司として御父と罪深い人類の間を仲介することができるからです。 このように、私たちの主は、長子として生まれた権利によって支配者であり、贖い主であり、仲介者であり、私たちの罪の担い手となることによって、ご自身の支配権を私たちと共有する権利を獲得され、メシヤとしての地位における御父の使命の成就において、それぞれの役割を果たされ(十字架で私たちを贖われ)、現在も果たされ(私たちのために仲介され)、再臨の時に果たされる(世界を支配される)のです。
<-17に続く>