私たちの仲介者となるため
聖書の基本4A-12
ロバート・D・ルギンビル博士著
d. キリストが真の人間性を帯びることは、私たちの仲介者となるために必要でした:
神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。 彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが…(第一テモテ2章5-6節a)
仲たがいしている二人の間に第三者が介入して紛争を調停するという考え方は、私たち誰もが共感できるものです。 疎遠となった二人の当事者の間の紛争を調停するために第三者が介入するという考え方は、誰もが共感できるものです。その意味で、聖書における仲介者キリストの概念は、和解の教義と密接に結びついています。キリストが仲介者となり、神と罪深い人間を隔てる敵意の障壁を取り除くのです。(エペソ2章14-18節; コロサイ2章14節参照)。しかし、私たちの主が仲介されることには、ほとんどの人間関係の紛争の解決とは大きく異なる三つの点があります。まず第一に、神と人間は対等な関係ではなく、さらに言えば、この「争い」においては人間が完全に悪であり、したがって解決に求められる満足はあくまで神にのみ捧げられるべきものです。(つまり、私たちには神に文句を言う根拠が全くないのです: ヨブ記9章33節)。王と罪を犯した臣民との仲介者となる役割は、父王と被造物である臣民の両者と同等である者でなければ務まりません。和解の使命を帯びた使者として遣わされることができるのは、御子(受肉した御子)だけです(マタイ21章33-40節)。第二に、解決を必要とする問題は人類の普遍的な罪深さであり、さらに、罪のために欠陥のある人類には、罪の負債を少しでも返済する方法がまったくありません。そのため、和解が実現するならば、仲介者自身が、被害者に償いをしなければなりませんでした。私たちの主は、私たちの罪のために十字架上で裁かれた際に、私たちの代わりにこの償いを済ませてくださったのです。したがって、第三に、この「身代金」の支払いを果たすために、イエスは真の人間とならなければなりませんでした。なぜなら、真の人間、しかも罪のない完璧な人間だけが、全人類の罪の代価を支払うことができるからです。 十字架上で私たちのために成し遂げられたその御業によって、イエスは仲介者としての役割を果たし、すべての人間に和解の道を開きました。その和解の道は、血潮によってそれを可能にして下さったお方への信仰によって受け入れられるものです。(ルカ2章14節; ヨハネ14章27節; ローマ5章10節; エペソ2章12-14節, 2章17節; コロサイ1章20節参照; ローマ5章1節も参照)[1]。
<-13に続く>
[1] 最初の契約の仲介者であるモーセ(新しい「よりすぐれた」契約の仲介者であるキリストとは対照的: ガラテヤ3章19-20節;ヘブル8章6節, 9章15節, 12章24節)は、仲介者の役割について、非常に参考になる予型的な描写を提供しています。モーセは、神に私たちのために懇願する一方で(出エジプト32章11-14節)、私たちに対して、神と和解するよう強く戒めています(出エジプト32章19-20節)。