イエス・キリストは真の人間

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2024年9月29日

イエス・キリストは真の人間

聖書の基本4A-9

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

2.  イエス・キリストは真の人間:  おそらく、宇宙の歴史における最も深い驚異で、時代を超えた比類なき栄光であり、神が人間の姿となってこの世に現れ、私たちの罪のために十字架上で死なれたという出来事に匹敵するものはないでしょう。しかし、そもそもイエスが真の人間性を身にまとわれたことこそ、父なる神の贖罪の計画を達成するために必要な第一歩だったのです。 「知られているように、知る」(第一コリント13章12節)までは、私たちの有限で限られた現在の状態では、主イエスが真の人間となられたことの驚異と栄光、その恵みと慈しみ、その犠牲と苦しみについて、理解することすら不可能です。

キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、[私たち皆のために]死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 (ピリピ2章5-8節)

この世に生きる私たちには、神の深遠さや、私たちを思うがゆえに神が何を犠牲にされたかを本当に理解したり、本当に感謝したりすることはできません。しかし、神が人となられたというこの輝かしい出来事の真実と現実を、信仰を持って喜んで受け入れ、神が人となられたという事実に対して畏敬の念を抱くことを怠ってはなりません。なぜなら、神である私たちの主イエス・キリストが、神性に加えて、本物の、生きた、息づく人間となられたという事実は、宇宙のすべてを永遠に変えたからです。 というのも、受肉によって、イエスは今やまったく唯一無二の御方として、衰えることのない神性を永遠に人類と結びつけられたからです。この真理の意味するところは、途方もなく、驚くべきものです。神の超越的な偉大さを考え、それを比較するとあまりにも哀れなほどにちっぽけで儚い物理的な宇宙と対比してみると、神が今や、唯一の御子という御方において、この物質宇宙と不可逆的に結びついたという知らせは、息をのむようなものです。 その意味するところのすべてを現時点で理解することは不可能ですが、少なくとも、神の御子を救い主として信じてきた私たちは、神がご自身の喜びにおいて、私たちが今住んでいる宇宙よりも1兆倍大きく、1兆倍複雑な宇宙を、努力を少しも必要とせずに1兆回も構築することができたかもしれないにもかかわらず、実際には今、神は御子を通して、もはや撤回することの出来ない形で、私たちに自らを捧げてくださったことを、深く感謝すべきです。これは、私たち一人一人が謙虚な気持ちになり畏敬の念を抱くことを決して怠ってはならない真理であり、ひれ伏して賛美と感謝を捧げるべきものです。なぜなら、イエスは神であられるだけでなく、あらゆる点で私たちと全く同じ存在とされましたが、ただ罪を犯されなかったという点においてのみ、私たちと異なるからです。私たちは、実験台でも、付け足しでも、そのような多くの進化のひとつでもなく、むしろ、常に神の不変の目的の一部であったことが確信できるのです。 なぜなら、唯一無二の神の御子である彼(神)が、圧倒的で畏敬の念を抱かせる、そして不変の方法で、私たちと共に、そして私たちのために運命を共にしてくださっているからです。

a.  キリストが真の人間性を帯びることは、私たちの救いを与えるために必要でした:  キリストが真の人間性を獲得することは、私たちの救いを得るために必要でした。 あらゆる議論をこえて、神の御計画におけるすべてのものは最終的にイエス・キリストに帰結します。神の計画におけるものは何であれ、キリストと、私たちの救いのためにキリストが十字架上で払われた犠牲的な働きから切り離すことはできません。そのため、例えば「キリストの十字架」は福音の包括的な象徴として機能します(例えば、マタイ10章38節, 16章24節; 第一コリント1章17節 ;ガラテヤ6章14節; エペソ2章16節; コロサイ2章14節)など、救いに関する福音の象徴として「キリストの十字架」が用いられる理由です。簡単に言えば、「イエス様がすべて」であると信じる私たちにとって、イエス様が私たちにとってすべてであることは、イエス様の十字架上の死と密接に、切り離すことのできない関係にあるのです。

(15)御子[イエス・キリスト]は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。(16)万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。(17)彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。(18)そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。(19)神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、(20)そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。(コロサイ1章15-20節)

神としての永遠の能力におけるイエスのすばらしさと栄光を過小評価することはできませんし、私たちの現在の限界ではおぼろげにしか理解できませんが、聖句は、イエスが私たちのために永遠の救いを成し遂げるために真の人間性を身につけなければならなかったという事実について非常に明確です。 神は苦しむことも、死ぬことも、罪のためのいけにえになることも、罪を贖うことも、その完全な聖性において罪と直接接触することもできません。 私たちの罪の担い手となる役割を果たすことができるのは、人間、それも完全な人間だけなのです。 罪深い人間である私たちは、神が私たちに代わって介入してくださらなければ、「来たるべき怒り」と、最後の審判が必然的にもたらす永遠の刑罰に直面する運命にありました。 しかし、福音の言葉では言い尽くせない良い知らせは、イエスが私たちのためにこの裁きを受け、十字架上で私たちの罪のすべてをご自身の体で背負ってくださったということです。 私たちのためにこのことを成し遂げるために、イエスは人間でなければならず、それも完全な人間、つまり、十字架上で世の罪を負う、本物の人間の肉体に宿った本物の人間の霊でなければなりませんでした(ヨハネ2章21節; ローマ7章4節; 第一コリント11章27節; マタイ27章50節; ルカ23章46節; ヨハネ19章30-42節参照):

食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。(ルカ22章20節)(マタイ26章26節; マルコ14章22節; ヨハネ6章51-59節; 第一コリント11章23-25節

わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。 パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。 (第一コリント10章16-17節)

キリストはわたしたち[ユダヤ人と異邦人]の平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて[この]平和をきたらせ、 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。 (エペソ2章14-16節)

あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。 しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。 (コロサイ1章21-22節)

キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、 (コロサイ 2章9節)

このように、子たち(すなわち,13節の子たち)は血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に(処女で生まれたので罪がないという点だけが同じではありません)、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。 (ヘブル 2章14-15節)

彼[イエス]は、ほかの[人間の]大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、[イエスは]自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。(ヘブル7章27節)

(5)それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。(6)あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。(7)その時、わたしは言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」。(8)ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、(9)次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。(10)この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。(ヘブル10章5-10節)

<-10に続く>

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