イエスは神の言葉/裁き主である神イエス

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イエスは神の言葉/裁き主である神イエス

聖書の基本4A-8

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

k.  神の言葉そのものであり、父からのメッセージと真理の体現者であるイエスは、神です(申命記18章18節; ヨハネ8章55節, 14章10節, 14章24節):

草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない。 (イザヤ 40章8節)

初めに、言があった。(ヨハネ1章1節前半)

「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている(すなわち、聖霊がキリストの思いそのものである聖書の言葉を明らかにしてくださる)。 (第一コリント2章16節) (12-13節参照)

「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。(第二コリント4章6節)

(1)神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、(2)この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。(3)御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。(ヘブル1章1-3節前半)

l.  神が世を裁かれるという預言に従い、すべての裁きが神に委ねられたので、神イエスが裁き主なのです:

(13)わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。(14)彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。 (ダニエル7章13-14節)

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 (マタイ28章18節)

父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。 それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。(ヨハネ5章22-23節前半)

そして、これらのこと[このローマ2章11-15節のさばきは]は、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。 (ローマ2章16節)

断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。 (ローマ3章6節)

(10)それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。(11)すなわち、「主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」[イザヤ45章23節]と書いてある。(12)だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。(ローマ14章10-12節)

なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。(第二コリント5章10節)

(9)それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。(10)それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、(11)また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。(ピリピ2章9-11節)

以上のことを踏まえた上で、誰が何と言おうとも、聖書がこの問題について全く明瞭でないと主張するのは不誠実です。聖書は、他のいかなる誤った解釈にもかかわらず、イエス・キリストの神性を明確に宣言しています。実際、聖書はほとんど全ての言葉において、イエス・キリストの神性を宣言していると言っても過言ではありません。そして、その証言を無視したり、軽んじたりすることによってのみ、異なる結論に至ることができるのです。 したがって、イエス・キリストは救われる者と滅びる者とを分かつ大きな境界線なのです(マタイ10:32~; 第一ヨハネ2章22節)。「主イエス」を告白しない限り、すなわち必然的に神性と人性、その全人格と十字架上の業を認めることがない限り、救いはあり得ません(ローマ10章9節)。イエスは真の人間ですが、単なる人間ではありません。「キリストのうちに、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」(コロサイ2章9節)。究極的には、聖書を信じる人であれば誰もが、イエスが神であることを疑うことはできません。なぜなら、私たちは主ご自身からこのことを教えられているからです。

(57)そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。(58)イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。(出エジプト3章14節参照)。(ヨハネ8章57-58節)(参照:ルカ22章70節; ヨハネ8章24節, 8章28節

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