絶対的永遠の安全という誤った教義 パート2

絶対的永遠の安全という誤った教義 パート2

ロバート・ルギンビル博士著

https://ichthys.com/mail-Absolute-Eternal-Security.htm

2. 信仰を守るよう警告している聖句:

あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。 (第二コリント13章5節)

これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。 だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。 また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。 また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。 また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。 これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。 (第一コリント10章6-12節)

よく注意して、わたしたちの働いて得た成果を失うことがなく、豊かな報いを受けられるようにしなさい。 すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。 (第二ヨハネ 1章8-9節)

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。 (ヨハネ15章5-6節)

3. 罪深い行いは信仰と相反するものであることを教える聖句の箇所:

肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。 (ガラテヤ5章19-21節)

それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。 (第一コリント6章9-10節)

また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。 また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。 あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。 だから、彼らの仲間になってはいけない。(エペソ5章3-7節)

富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。 (第一テモテ 6章9節)

私の理解では、肉欲的な生活に身をゆだねると背教に陥る危険性があります。それは、神が罪を赦すことができない、あるいは赦すつもりがないからではなく(まったく逆です!)、むしろ罪深い生活に身をゆだねると、時間が経つにつれて心が固くなり、告白して立ち返ることを拒む人々は、神の御顔を直視できなくなる(ヨハネ3章19-20節)可能性があり、イエスやイエスに従うことに関心を示さなくなり、彼らはもはや信仰を持たず、また、それらの言葉のいかなる適切な解釈に対しても信じることがなくなる可能性があります。これが背教であり、あなたも時折、この現象を目にする機会があるのではないかと思います(悲しいことに、ほとんどの人がそうです)。この現象について最も詳細な説明は、次のリンクを参照してください。

次に(そして、ここまでで私は間違いなくあなたの忍耐を試してきたので、より簡単に)、「携挙」についてですが、私は確かにそれを信じています。それは現実です。私の見解が異なるのは、聖書がその時期をどのように描写しているかについてです。「キリストにある死者はまず初めに立ち上がり…」や、「私は戻って来て、あなたがたを私といっしょにする」、「ラッパが鳴り、キリストにある死者が朽ちない者として立ち上がる 朽ちないものとなり、私たちは(生き残った者たちは)変えられる」と主張するでしょう(それぞれ第一テサロニケ4章13-18節ヨハネ14章1-3節第一コリント15章51-58節)。しかし、これらの聖句のいずれにも、時間的な枠組みは示されていません。もし私たちが、教会の肉体的な復活が再臨の時に起こるという前提を先に立てた場合、これらの聖句のどれにも、その前提が誤りであることを示唆するものは何もありません。しかし、艱難期前携挙説を理解するには、多くの問題があります。それどころか、まともな人であれば、聖書を読むだけで、そのような「教義」を思いつくことは決してないと言っても過言ではないでしょう。「永遠の安全」に関する議論と同様に、主から完全に背を向けることの結末を警告する多くの聖句があるように、携挙の場合にもキリストの再臨<訳によっては「来臨」>(ギリシャ語では「パルーシア」)に注目する多くの聖句があります。その言葉が使われている例で、艱難前再臨を指し示すものは一つもありませんが、 聖書で実際に使用されている場合、それはほとんど常に再臨を意味しています(例えば、マタイ24章3節, 24章27節, 24章37-39節, 第一コリント15章23節ヤコブ5章7節; 第二ペテロ1章16節, 3章4節, 12節; 第一ヨハネ2章28節)。また、第一テサロニケ4章13-18節 の場合でも、15節の「パルーシア(再臨)」の用法は、その数節後の第一テサロニケ5章23節や、さらに前の第一テサロニケ2章19節と同じ意味であるに違いありません。すなわち、それは、苦難の直前ではなく、再臨の時におけるイエス様の再臨を意味しています。以下のリンクもご覧ください。

これについて語るべきことはまだまだたくさんありますが、永遠の安全と大艱難期前の携挙という、心地よく、魅力的なよく知られた教えを踏襲していたら、それは私にとってとても容易なことだったと言えば十分でしょう。聖書に従うために代価を払うことを怠らなかったと私が言うことを信じてください。私は、自分が何をしようと、あるいは何をし損ねようと、自分の救いが危機にさらされることはない、と心から信じたかったのです。そして、何が起ころうとも、自分が艱難期を経験することはない、あるいはありえない、と心から信じたかったのです。しかし、これらの教義の証拠を固めるための誠実な試みによって、私は、聖書を注意深く継続的に読み、研究することによって、これらのことが実際には正しくないことを確信するようになりました。これらの教えのために多くの人々から「のけ者」扱いされているにもかかわらず、伝統に基づく体系的な教よりも聖書の真理を勝ものとしてきたことを後悔していません。結局のところ、その崇高な目的こそが、そもそも私をティーメ大佐の働きに引きつけたものであり、そこから私が享受し続けている最高の恩恵なのです。

どうぞ遠慮なさらずに、この件について私に連絡してください。

イエス・キリストの愛と御言葉の真理を信じて、送信いたします。

ボブ・ルギンビル

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