三位一体の一格/神のひとり子
聖書の基本4A-5
ロバート・D・ルギンビル博士著
d. 三位一体の一格として、イエスは御父と御霊と対等であり、共に永遠です(ヨハネ5章18節, 17章5節):
イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父(の名=父なるお方)と子(の名=子なるお方)と聖霊との名(=聖霊なるお方)によって(eis=の中に入る)、彼らに[御霊の]バプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。(マタイ28章18-20節前半)
わたしと父とは一つである」。 (ヨハネ10章30節)
父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。(ヨハネ17章5節)
霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。 務は種々あるが、主は同じである。 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。 (1コリント人12章4-6節)
主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。 (第二コリント13章14節)
からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。 (エペソ書4章4-6節)
イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。 (第一ペテロ 1章1-2節)
(4)ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、(5)また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。(黙示録 1章4-5節前半)
e. イエスは神のひとり子であり、この称号は聖書で使われているように、イエスの神性を明らかに示しています(ルカ9章35節、ヘブル5章5節、第一ヨハネ1章3節; 5章20節; 第二ヨハネ1章3節参照):
イエスはバプテスマをお受けになると、すぐに水から上がられ、見よ、天が開いて、神の御霊が鳩のように下って来て、イエスを照らされるのをご覧になりました。 そして、見よ、天から声がして、『これは、わたしの愛する子。(マタイ3章16-17節)
彼(ペテロが)がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。(マタイ17章5節)(第二ペテロ1章16-21節参照)
神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。 (ヨハネ1章18節)
(16) 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(17)神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 (18)彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 (ヨハネ3章16-18節)
なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」となると同時に「否」となったのではない。そうではなく、「しかり」がイエスにおいて実現されたのである。 なぜなら、神の約束はことごとく、彼(すなわち、イエス・キリスト)において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。(第二コリント1章19-20節)
(4)しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。(5)それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。(6)このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。(ガラテヤ4章4-6節)
(5)いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」(詩篇2篇7節)と言い、さらにまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」(サムエル下7章14節)と言われたことがあるか。(6)さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」(詩篇97篇7節後半)と言われた。(7)また、御使たちについては、「神は、御使たちを風とし、ご自分に仕える者たちを炎とされる」と言われているが、(8)御子については、「神よ、あなたの御座は、世々限りなく続き、あなたの支配のつえは、公平のつえである。(9)あなたは義を愛し、不法を憎まれた。それゆえに、神、あなたの神は、喜びのあぶらを、あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた」(詩篇104篇4節)と言い、(10)さらに、「主よ、あなたは初めに、地の基をおすえになった。もろもろの天も、み手のわざである。(11)これらのものは滅びてしまうが、あなたは、いつまでもいますかたである。すべてのものは衣のように古び、(12)それらをあなたは、外套のように巻かれる。これらのものは、衣のように変るが、あなたは、いつも変ることがなく、あなたのよわいは、尽きることがない」(詩篇102篇25-27節)とも言われている。(13)神は、御使たちのだれに対して、「あなたの敵を、あなたの足台とするときまでは、わたしの右に座していなさい」(詩篇110篇1節)と言われたことがあるか。(ヘブル1章5-13節)
神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。 (第一ヨハネ4章9-10節)
テアテラにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。 (黙示録 章:18節)
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