新しく造られる

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2024年9月18日

新しく造られる

良い行いをもって償おうとすることは、自分で自分を救おうとしていることで、神はそのような犠牲を顧みられません。よく自分の欠けていることを、行いによって繕おうとすることは、神に完全に従うこととはかけ離れていることです。ある人は、他の人が善行/慈善行為/奉仕などをしているから、自分たちもそうすべきだと思いますが、これも同調圧力に影響されているだけであって、たとえそれが良いことだと言われていることでも、その動機を調べてみる必要があります。

 イスラエルの民が、約束の地を調べに行かせられた時、その斥候チームがその地のことを悪く言いふらしたために、民の心は挫けて約束の地に行くのを止めました。

 その地を悪く言いふらした者たちは、疫病にかかって主の前に死んでしまいますが、裁きから免れた者達で、罪の償いとして出かけて行った者達も、滅ぼされることになりました。人の心に思い計ることがいかに虚しいものか…。

 こうして、モーセにつかわされ、かの地を探りに行き、帰ってきて、その地を悪く言い、全会衆を、モーセにむかって、つぶやかせた人々、 すなわち、その地を悪く言いふらした人々は、疫病にかかって主の前に死んだが、 その地を探りに行った人々のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフンネの子カレブとは生き残った。

モーセが、これらのことを、イスラエルのすべての人々に告げたとき、民は非常に悲しみ、 朝早く起きて山の頂きに登って言った、「わたしたちはここにいる。さあ、主が約束された所へ上って行こう。わたしたちは罪を犯したのだから」。 モーセは言った、「あなたがたは、それをなし遂げることもできないのに、どうして、そのように主の命にそむくのか。 あなたがたは上って行ってはならない。主があなたがたのうちにおられないから、あなたがたは敵の前に、撃ち破られるであろう。 そこには、アマレクびとと、カナンびとがあなたがたの前にいるから、あなたがたは、つるぎに倒れるであろう。あなたがたがそむいて、主に従わなかったゆえ、主はあなたがたと共におられないからである」。

しかし、彼らは、ほしいままに山の頂に登った。ただし、主の契約の箱と、モーセとは、宿営の中から出なかった。 そこで、その山に住んでいたアマレクびとと、カナンびとが下ってきて、彼らを撃ち破り、ホルマまで追ってきた。 (民数記 14章36-45節)

エジプトから出ることは、一つのことですが、自分たちの心と思いにしっかりと絡みついてしまっているエジプトの影響を取り除くことは、さらに大事業です。しかし、神は私たちを新しく造られた者とすることができます。自分の義ではなく、キリストの義に寄りかかる者となることによってです。これはただ神の御霊によりますが、主は私たちがそのような者となるように、日々働きかけてくださっています。主の働きかけを喜んで受け入れる者となれますように。

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。 この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。(ガラテヤ書 6章14-16節)

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