求める—肉か霊か
自分を満足させるために、快楽を求め、肉を求め、富を求めても、結局は自分の手から逃げていく。求めているのに得られない…。
ヤコブの書に「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです」(新改訳Ⅳヤコブ4章3節)とあります。
こうした状態が「肉にある」「肉のうちにある」ということです。そしてそうした状態にあるつまり、悪い動機で求める状態にあるその人の思いを「肉の思い」と表現されています。
もともとの人間の性質に、肉を求めるところがあります。それはある面で自然です。私たちの体は肉でできていますし、聖書では、女は、男のあばら骨から取られたとあります。また男も女から生まれます。また男も女も一つに結ばれるように、神様は造られました。
また肉は土からできて、土から産される物から命を得ています。
また、私たちが神の息、神の霊が吹き込まれて生きたものとなったので、神と一つになることを求めることが心の中に埋め込まれているのです。人の欲求も、神との交わりも神の意図された清いものでしたが、サタンの誘惑によって物事は一変してしまいました。
サタンの「神抜きで幸せになれる、いや実は私に聞き従えば幸せになれる」という誘惑と、また人が誘惑に負けて誤った選択の結果(罪)、人と世界に死が入ってしまいました。肉も物も腐敗と朽ちる方向に向かい、死が待つ状態となったのです。その中で人類は、悶え苦しむこととなりました。
この罪とその結果からの解放のため、イエス・キリストがやってこられたのです。全世界の罪のための身代わりの死です。たった一人の人(アダム)の誤った選択から死が全世界に入りましたが、第二のアダムであるイエス・キリストによって、すべての人が信仰によって命に与る約束が与えられたのです。
聖書では「命と御霊の法則」について述べています:
こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 (ローマ8章1-2節)
神の御霊は、わたしたちが肉のことを思わず、霊のことを思うように導かれます。(罪の入った)性質上、肉は絶えず肉のことを思い肉の事を求めるように仕向けられますが、私たちはそれに捉われず、それに応答しないで、御霊の助けによって神の言われたことに、信仰によって従うこと(肉の思いに対抗して、目に見える結果をすぐに見なくても御霊の導きに従うこと)を聖書は言っています。
律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 (ローマ人への手紙 8章3-14節: 8章15節以降も参照)