見よ、わたしは新しいことを行う
今回の旅の終りに、ある兄弟が、素敵な絵を下さいました。それは神様の両手の中に、芽を出したばかりの植物があり、背景には虹が描かれていました。そしてそこには、「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている」(新改訳Ⅳイザヤ43章19節前半)の聖句がありました。
色々な地域のエクレシアを訪ねさせて頂いて、それぞれの中に主が働かれておられるのを目にして、御霊の働きの美しさ、そしてそれに譲渡して従う人の証…これこそ、エクレシアの命の輝きと感動せずにおられませんでした。
たとえ、それが小さな始まりであっても、神がその中におられるなら、力強く、何ものもその動きを止めることはできません。
今ではどうしようもなく確立してしまったしきたりや慣習ではなく、ただ御言葉の真理と、御霊の導きと、主の確証に従って、ついて行っている兄弟たちの信仰に私の信仰も刺激されますし、お互いのために祈らさせられます。 肉の働き、誇り、嫉妬、比べ合い、怠慢、自己満足、耽溺、疑い、偽善…すべてこれらの罪を後に残して、信仰によって主の呼びかけに応えて進んでいくことができますように。
イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。 (ヨハネ 8章31-32節)
信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。 (ヘブル11章7-8節)
しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。 (第一コリント2章9節)
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。 ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。 (ピリピ 3章12-16節)
見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたはそれを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。(新改訳Ⅳイザヤ43章19節)