「神はケチな方ではない」??

「神はケチな方ではない」?? この言葉をある信者が話しているのを聞いて、どうもしっくりいかない思いがしていました。

どうしてかというと、まず、そのような文句は神の言葉ではないことは、言うまでもないことですが、おそらく、この言葉が使われたのは、「すべての人に寛容で、広い心を持って、すべての人を受け入れる」ということを掲げているような人達のムーブメントの同調圧力に負けたのか、それらの人達の中に入って、受け入れてもらいたかったのか、神の寛大さを擁護しようと思ったのか、理由はわかりません。しかし、救いの大安売りをして真の救いを世にもたらすことができるのでしょうか?確かに恵みによって私たちは救われ、福音は全ての人のためですが、神の聖なる御子の犠牲によるのであって、私たちには罪から離れて新しく生きるという悔い改めを求めておられるのです。イエス・キリストを通して救われるというのが福音です。

「神」という言葉を引き合いに出しているからには、もしそれが聖書の「神」というのなら、聖書で、神様のことを何と言っているか、見てみる必要があります。神は確かに寛容です。有名な「山上の垂訓」と言われている箇所からの一部に次のようにあります:

『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 (マタイ5章43-48節)

確かに神様の愛と寛容、聖書にあります。そして私たちもそのような者となりなさい、と。しかし、上記の聖句からわかるように、神様は「悪い者」と「良い者」、「正しい者」と「正しくない者」をしっかりと見分けておられます。

そして私たちに、次のように語られている聖書の箇所があります:

すべてのものを識別して、良いものを守り、 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。 (第一テサロニケ5章21-22節)

今の時代、何でも新しいものを受け入れるという風潮の下に生じる被害も出るかもしれないということ、そうした中で何を取り入れ何はそうすべきではないかを識別していく必要があります。第一テサロニケ5章21-22節は、信仰者が特にこの時代に心に留めておくべき指針であると思います。

従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。 (第一ペテロ1章14-16節)

摂食障害を抱えた人、今はそれから解放されている人が、自分はその当時、あまり辛いとは感じなかったと言っていました。どうしてかというと、ただその霊にゆだねていたので<私は摂食障害には悪霊がかかわっていると信じます。また多くの精神的な障害には悪霊の働きがあるとも>、自分では辛いと思ったわけではない、と。しかし、大変だったのは、自分の状態に気づき、もうこういう状態でいたくないと思って、変わろうとしてからだったこと、一つづつ、階段を上るように、自分がどれだけ、良い習慣を壊してしまったかに気づいて、それをまた築き上げるのにとても大変だった、と。良い生活習慣を放蕩に変えるのは、簡単ですが、罪を離れて、正しい生活習慣を身に着けるのには、努力と時間がかかります。<この話を聞きながら、その人が作ってくれた美味しい食事を共にすることができました。彼女の決意と、また周りの人達の祈りの力の結果を目にすることができました。彼女はもうじき結婚します。>

すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。 (マタイ15章22-28節)

基本的には、本人が気づき、また本人の選択が第一ですが、私たちは、この世の間違った基準や価値観に取り囲まれて生きています。そうした中で信仰者である私たちは、「罪のうちに留まらないこと」「神には何でもできないことはないこと」を心に留めて、あきらめないで祈りつづけ、信仰の戦いを戦い抜くことが必要です。罪を助長するようなことを言うべきでもありませんし、すべきではないです。

…彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。(新改訳Ⅳ 第二テサロニケ2章10節後半~12節)

 神の御霊による真の自由の尊さに与ってそれを求め続けるか、それともやはり肉の自由(放縦)に戻るかは、本人次第です。

神には、なんでもできないことはありません。 (ルカ1章37節)

 ただ、途中であきらめないで、自分たちが何を神様に求めているか、神様の御前でもはっきりと、申し上げ、神様が答えて下さると信じて、期待する必要があります。その信仰の努力を挫こうとして敵が猛攻撃してきてもたじろぐべきではありません。闇から光へ一歩踏み出す時は、常に戦いと痛みはつきものです。悪魔は自分の領域をやすやすと明け渡したくないのは明らかです。しかし、その時こそ、信じ続け、期待し続け、前進し続ける時です。戦いが激しければ、それだけ大きな結果が期待できます。しかし途中であきらめて、現状を受け入れるなら、何も変化はありません。

あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。 (ヘブル12章4節)

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。(ローマ 12章1-2節)

 わたしたちが神の聖なる御性格を尊重して、一歩、二歩と前進するのを神は必ず報いて下さいます。

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