神の言葉によって
信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。(ヘブル11章11節)
自分のうちには、力も気力ももう残ってはいないと思えても、この朽ち果てて行くからだに、もし神が御声ををかけて下さるなら、その御言葉の種が命を与えてくれることを知っています。神の御心は成し遂げられるからです。
百卒長が「…ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。」(マタイ8章8節)と言って僕がいやされたように、私たちも神の語られた言葉の権威をもっと信じる信仰を持てますように。
自分のうちには、何もなく、何も残っていないように思えても、主に死んでいたような人生を捧げるなら、主はそれを生かして用いて下さいます。これは日々しなければならないことだと思います。実際、主の御霊と御言葉から離れて、私たちは、実を結ぶことはできません。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 (創世記1章3節)
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。 (マタイ4章4節)
あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。 「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。 しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。 (第一ペテロ1章23-25節)
今日、あなたの御言葉によって、わたしを新たにしてください。