洪水(信仰のテスト)に備える
人生、八方塞がりのような場所に立たせられる時が、誰にでも幾度かあるのではないでしょうか?
今、もしかしたら、そうした困難に遭遇している方もおられるかもしれません。世界の情勢がますます混乱に向かっている中、人々もそれに巻き込まれたり、またそうでなくても周りを見て不安に感じ将来に対する行き詰まりを感じている人も少なくないと思います。
イエスが人々から殺されかけた時のことについての、次のように聖句があります:
会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。 しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。 (ルカ4章28-30節)
そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。 (ヨハネ10章39節)
実際にどのようにして、イエスがそのような状態から抜け出せたか、わかりません。イエスも、人としての肉体を持ち、彼もこの世で死を遂げるということになりますが、ただ、それは彼の時でないと起こらないことでした。
そこで人々はイエスを捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった。イエスの時が、まだきていなかったからである。 (ヨハネ7章30節)
イエスの時…そして、私たちすべての信者には、自分の時があるのです。
すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。 (ローマ14章7-8節)
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。 (エペソ 2章10節)
わたしたちが、この地上に今いるのは、神の御計画の下、神様があらかじめ各個人のために備えて下さった良いわざを行うためです。どれだけ長く生きてそれらのわざを行うのか、どのようにこの地上の人生を卒業するのか、ほとんど具体的にはわかりませんが、神様が定めて下さった時まで、私たちは、神の栄光のために生きるようにと定められているのです。
試練は全ての人にやってきます。そして、今これから、全世界は、今までになかったような試練を通過することになるでしょう。そんな中でも神は、私たちのために道を開き、支え、導かれます。以下にある「洪水」は、私たちを試す試練の時です。その中で立っていられるのは、神の御言葉を聞いて行う者であると告げられています。
それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。 (マタイ7章24-27節)
この聖句に、洪水の中でも倒れることのない家のことが言われています。もちろん、家のことを言っているのではなく、私たち信者が神の言葉を聞いて行うように、つまり試練が来た時でも大丈夫な備えの秘訣がここにあるのです。
主が「これらの言葉を」と言われていますが、この洪水の話が、マタイの福音書5章からな7章まで続く有名な山上の垂訓と言われるメッセージを指しています。「…敵を愛し、迫害する者のために祈れ…」という、神の子としてのモラルの基準が示されているところです。はじめから「できるはずがない」と言い切るのではなく、これが神の子たちに求めておられることであることなのです。
聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。 (第一ペテロ1章16節)
そして、神の助けによって、神の望まれていることであれば、できるのです。
イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。 (マルコ10章27節)(マタイの福音書5章から7章も参照)
来たる洪水、艱難期に備えること、神の御言葉を聞いて信じ、行うことを今から、今日から始めることができます。