いつまでも続くもの

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2024年8月29日

いつまでも続くもの

今、人は本当に大切なものは何なのか、考えさせられる時だと思います。先日、若くして亡くなったS君の葬儀では、会場に彼の生前の写真がたくさんデイスプレイ・スクリーンから流されていました。特に、彼の近年の写真で、私たちの村にやってきてくれていた当時の彼の写真がたくさん紹介されていました。それ以上に彼の最後の闘病の数年の写真はもっとたくさんで、彼がどれだけ、たくさんの経験をし、また人との素晴らしい関係を持っていたか、そして最後まで看取ってくれたフィアンセと家族に愛されていたかがわかりました。そして写真に写っている彼の深い目から、おもいやりと愛を感じさせるものでした。

 S君のお母さんは、「若いのに惜しいです。でもこの二年いろんなところに行きました。やり切った感じでしたから、本人は悔いがないでしょう」というようなことを言っておられました。私と息子も、終わることがない延々の続く彼の生前の写真のディスプレイに、何十年生きていても、これだけのこと、体験できるかな、ということを話していました。

 S君が、寿命が短いからと自暴自棄になっていなかったことは、写真を見ても、そして駆け付けた百人もの友人達が、涙を流しているのを見ても、彼が周りの人達にどんな影響を与えていたか察することができました。

 人生の価値は、長く生きるか、短命かでは、測ることができないという言葉を改めて考えさせられるものでした。そして彼がおそらく闘病の時撮った写真だと思いますが、それがフォトショップで編集したのか、彼が自筆で書いたのか、その色紙を手にしているのが一枚ありました。そこ書かれた言葉は、「また、会おう!」というメッセージでした。その言葉は、彼の最後の言葉として、とてもぴったりです。いつも周りの人に気遣い、寂しそうで助けが必要な人に話しかけている彼の姿は、人はこうあるべきだと、思わせるものでした。そして、久しぶりに再会する者達を、再び一つにしてくれる、影響力を持つ人でした。

聖書の言葉に次のようなものがあります:

世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。 (第一ヨハネ2章17節)

 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。 (ヤコブ4章14節)

 人の所属している組織も、グループも、建物も、また自分の体も、また達成したことも、霧のように消えていくものです。ただ主のためにしたことだけ…。主の御前に出る時、私たちは裸です。どんな思いをもって生きたか、どれだけ愛したか、どれだけ神に生きたか、それが問われます。

 今、私たちが本当に大切なことにフォーカスできるように、他のものを主は揺さぶったり、取り除いたりしておられるように思えます。少なくとも、その時が近づいていることは確かです。

 私は、十分生きているのか、今日が最後の日であるかのように。もしかしたら、本当に最後の日となるかもしれません。主と顔と顔を合わせてお会いするとき、「この人は、自分にできる限りの事をした」と言われたら本望です。(マルコ14章8節参照)

 今日、神の御霊が、語り掛けることを、聞いて行う者となれますように。

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 (第一コリント13章13節)

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