この岩の上に
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。 (マタイ16章18節)
マタイ16章18節の「この岩の上に」の「この」はギリシャ語のホウトスと言う言葉が使われており、これはヨハネ2章19節の「この」と同じ使い方をしています。つまり御自分のことを指して使われているのです。
イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。 (ヨハネ 2章19-21節)
ですから「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われた時、それはペテロではなくイエス様ご自身のことを指して言われたのです。イエス様は、他の箇所で、「神の言」と言われています(黙示録19章13節)、また御自身「真理」であると言われました(ヨハネ14章6節)。つまり、私たちは、神の言葉の真理の上に、私たちの交わりを持つ、それが真のエクレシアとなるのです。伝統の上にでも、形式の上にでも、まして聖霊を受けた後にも間違いを犯したペテロのような指導者の上にでも(「ペテロ」は(転がる)「石」の意味であり、(動かない)「岩」なるイエスとの対比で、いわば洒落で語っているのです:ガラテヤ2章11-14節参照)なく、神の言葉の真理に対する信仰を持つ兄弟姉妹の集まり、つながりを持つ(そして各自の召しを果たす)エクレシアのこと(よく「教会」と訳されているギリシア語の「エクレシア」は使命を果たすために呼び集められた人達の集まりのこと)を言っているのです。
それが二人であろうと、三人であろうと、神の言葉の真理に基づいてキリストの体を建て上げるために用いられる交わりとなりますように。祈り、交わり、そして神を愛し、神の言葉を行い生きるという真の生きたエクレシアとなりますように。