寄り添う
東北大震災の時から、よく聞く言葉でした。被災した人と共に歩む…ための姿勢…?
何か気高い響きのする言葉ですが、本当に心から「寄り添う」というのは、簡単なことではないことは確かです。被災した人や、何か試練を抱えている人に対して、自分は高い所にいて、低くなってしまった人の所に、何とかして手を伸ばすというようなイメージが思いのどこかにあると、真の意味で寄り添うってできないのではないかと思います。
しかし、自分も同じように、被災すると、そうしたくなくても、同じ立場に立たされてしまっているのです。似たような視点から災害を見ますし、これから先の将来を似たような視点から眺めているのです。そして毎日、同じような光景を共有するのです。
先回の(もうだいぶん経ちましたが)、大雨の被害に遭ったために、いくつかの経験を近所の人達と少し共有することになりました。普段では、体験できなかった事柄です。
あふれた砂利の片づけ、壊れた水道パイプの修理、その次の大雨のための土嚢の積み上げなど。当然、そこに同じ視点、同じゴールが生じ、助け合って、乗り越えようという気持ちが沸いてきます。協調性、そしていわゆる寄り添うということが自然な形で生じ始めます。
同じ試練、同じ被災を体験しているからです。<今現在も、大変な被害を被っている人達と比べると、自分たちの状況に「被災」という言葉を使うのは、おこがましく思います。ただ、どんな苦しみも、世の中には似たような苦しみを通過している人がやはりどこかにいて、慰めの存在となってくれるということも、また真実ではないでしょうか。第一コリント10章13節前半>
私たちの体験する思いがけない試練、病、人との摩擦…これらすべては、順調にいっていたら、決して体験することも味わうこともなかった特別な祝福への入り口のようなものではないかと思います。神様がうまく備えて下さった、きっかけがあり、体験を通して、他の人と共有できるものがもう一つ増えるのです。似たような試練、似たような病、苦しみを通過している人と自然と同じような視点が生じるのです。
イエス様ご自身が、神であられたのに、人の姿をとられたのは、まさにこのためでもあったのです。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 (ピリピ 2章6-8節)
ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。 それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。 わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。 だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。(第二コリント1章3-7節)
悲しみや患難を、上記のパウロのように見れたら、私たちには思いもよらなかった祝福への扉が開いているのに気づくのではないかと思うのです。そして自分にとっては未踏の新しい領域を、やはり主は共に歩んでくださるのです。慰めに満ちた御声をもって。そしていつか、あるいは近いうちに、あるいはすぐそばに、同じ試練を抱えた人が自分を待っていることに気づくことになると、思うのです。
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 (第一コリント10章13節)