星のように
息子家族が来たというので、昨夜、隣の町の花火をみんなで見に行きました。
近くまで行っても、混み合っているだろうからというので、遠くからでも見えるところに、シートを敷いてそこに座りました。妻と私は、キャンプ用の椅子に座らせてもらいました。
空には、星が輝いています。そして月は花火会場の真逆の方できれいに丸く空に浮かんでいます。
開始の花火の音と共に、大きな円を造る光の点たちが輝きます。これを作った人達、すごいなーと、思わず口から言葉が出てきました。何発かの花火がひと区切となって、少しの休憩を挟んでまた次の花火が打ち上げられます。
花火の音と光の方向に私たちの目と耳が向けられます。しかしそれらは、全く一瞬のうちに消え去ります。そしてわたしは、目を休めるというわけでもなく、もっと上の方に目を向けると、星たちが前と変わらない所で、静かな光を放っています。これらの光こそ、歴史をとおして航海する者に進むべき方向を示し、心に悲しみを持つ者に希望を与えてきたのです…
実は、今日、ある兄弟と「大宣教命令」について語り合っていました。海外宣教とかについてです。若い兄弟は、海外での宣教に重荷を持っていたのです。彼との会話の中で、私は、どこにいようと、自分の生き方こそ証ではないかと話したのです(海外宣教に反対しているわけではありませんが、自国であろうと海外のどの国であろうと主の導かれるところへはどこへでもついて行くことにこそ、祝福と実り豊かさがあるのですから)。
私たちは、とかく何かをしていないでは、いられないところがあります。確かに私たちは、生ヌルであるべきではありませんし、ラオデキヤ教会のようであるべきではないのですが、しかし、主に耳を傾けることをせず、主の御心のうちに生きていないのであれば、花火のように人目を惹くことはあっても、真に主の愛の光を反映することにはなりません。私たちは、まず耳をしっかりと傾ける必要があります。
聖書に終わりの時に、信者らが、星のように輝くことを語っています。もちろん全ての信者ではないでしょう。その中で、しっかりと主につながっている者達です。
賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。 (ダニエル12章3節)
私たちは、御言葉の真理に根差し、主につながって、御霊に導かれることによって、主に用いて頂くだけです。どうか、私たちのするすべてのことが主の聖霊によって満たされたものとなりますように。
…主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。 (ゼカリヤ4章6節)