命を見いだす者は少ない
人が何を気にし、気を揉み、苦しんでいるか…考えてみると、組織(団体)からの圧力だったり、評判だったり、どうみられるかに捉われてしまっていることが多い。しかしそれに気づいて、もうそうした中にいるのは止めよう、とか、そんな生き方はもう止めると決意して、実行する人がとても少ない…
聖書に、彼らには、「自分を救う真理を愛をもって受け入れなかっ」という言葉があるけれども、神の御霊はいつまでも争ってくれません。
…彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。(新改訳Ⅳ 第二テサロニケ2章10,11節)
真理の霊の説得に抵抗して、それに自分の理論で(人のひとりよがりで)勝っても、何の得にもならない。上の聖句は、神が、「あなたが、そんなに私の真理を嫌うんだったら、あなたが好きな理論を抱いていなさい」というようなものです。
筏(いかだ)の上の遊び、あるいは紛争、イベントにそんなにも夢中になっていて、滝つぼに近づいていることに気づかない人達が多いように思えます。聖書で、今の時代について、色々と語られても、「私たちの今やっていること、今やっている形式に文句はつけないでほしい、それで忙しいんだから」というようなもので、聞く耳をもちません。
私たちは、「御霊が諸教会に言うことを聞く」必要があります(黙示録3章22節)しかし、そのためには、立ち止まって、時間をとって、学ぶ姿勢が必要であり、実際に学ぶという労働をする必要があります。
わずかな、はしたの時間しか、神の御言葉の学びのためにとっておくことをしないで、(あるいは、少し学び始めては、学ぶのは大変だからといって、気晴らしに走るか、耳障りが良く、自分の都合に良いことを語ってくれるところに行くことをしているなら、何も習得することはないでしょう)。
わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。(箴言 8章17節)
わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。 (ヨハネ 14章21節)
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
(マタイ7章13-14節)