隠れた罪
神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。(エペソ4章30節)
聖霊を悲しませながら、聖霊の力を頂くことはできません。神の御前に、どんな罪も隠されていません。
あなたはわれらの不義をみ前におき、われらの隠れた罪をみ顔の光のなかにおかれました。 (詩篇90篇8節)
人がいかに神様の心を悲しませていながら、その罪に気づくのに遅いか、あるいは、気づくことが出来ないかは、残念なことですが、それが人の罪深さというものでしょう。自分は赦してもらえても、他の人を赦すのは、難しいのです。
それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。 (マタイ18章23-35節)
天の父に赦されていない状態にとどまることは、明らかに聖霊を悲しませることですし、証のための聖霊の力を受けることは、むろんのこと、自らの霊が拘束されている状態です。
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 (マタイ 7章3-5節)
だれが「わたしは自分の心を清めた、わたしの罪は清められた」ということができようか。 (箴言20章9節)
次の祈りをしたいと思います。
だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。(詩篇 19篇12節)
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。 (マタイ 6章12節)