最も低くされた人、人なられた神
神を冒涜する者:「人の子が…天の雲に乗ってくるのを見る…」…「…彼は神を汚した…」(マタイ26章64, 65節)
嘲弄された:そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、 十字架からおりてきて自分を救え」。 祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。 イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。 (マルコ 15章29-32節)
…彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び…
(ヘブル12章2節)
神に似せて造られた人が、「嘘つき」「冒涜者」「悪霊つき」と言われて、その尊厳も取り去られ、踏みにじられて、恥を負わされるということほど、屈辱的なことはないでしょう。しかしイエスは、私たちの罪の身代わりとなるために、自ら進んで、辱めを受けられ、耐え忍ばれました。
イエスは言われた、「…人の子<イエス、ご自身>について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてある…」(マルコ 9章12節)
その程度は、色々と思いますが、人からさげすまれ、恥を負わされるという屈辱を耐え忍ばなければならない時というのは、誰にでもあるのではないか、と思います。少なくとも悪霊は、常に人を容赦なく、攻撃し、屈辱を負わせようと、そして神の御前に訴える口実を見つけようとします。
しかし、多くの苦しみと辱めを自ら通られたイエスにとって、同情し、理解し、憐れむことのできない苦しみも辱めもありません。そして主は、私たちが罪を告白し、赦しを求める時、赦して下さいます。彼は、そばにいてわかってくれます。今日一日生きるようにと命を与えて下さった神が共にいて下さいます。
この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。(ヘブル4章15-16節)
あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、二倍の賜物を受け、はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。それゆえ、あなたがたはその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。 (イザヤ61章7節)
主の聖徒よ、主をほめうたい、その聖なるみ名に感謝せよ。 その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。 (詩篇30篇4-5節)
…主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。 (ヘブル 13章5節)
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 (第一コリント10章13節)