https://ichthys.com/6A-Peripateo.htm#1._The_Water_of_the_Word (ルギンビル博士著)からの訳
みことばの水
イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 (ヨハネ 3章5節)
文字どおりの水がなければ、肉体の生命は不可能です。 同様に、真理がなければ、霊的な命もあり得ません。そのため、上記の箇所のように、聖句はしばしば、神の言葉とその真理を、生命を与え、生命を維持する性質を持つ水にたとえています。 上記の箇所では、救いは、福音、すなわち聖霊によって理解できるようにされた真理や「みことばの水」を聞いた人が、信仰によってその真理を受け取ることを必要とします。そうすれば、その人は、真理のいのちを与える水と聖霊の働きによって新生し、霊的に生きる者となるのです。
ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 (マルコ4章5-6節)
救いの時と同じように、霊的成長においても、真理の命を与える力、御言葉の水が不可欠です。 「信仰の植物」が御言葉の水で養われていない場合、信仰は人生の重圧に耐えることができず、艱難によって焼け焦げ、信仰によって心にしっかりと留められているべき真理が欠けているために枯れてしまいます。背教とは、種まきのたとえのこの部分で描かれている状況のことで、真理に対する信仰が完全に失われることです。そして、その根本的な真理とは、私たちが救われる福音のことです。イエス・キリストとその御姿、そして私たちのために十字架上で死なれた御業に関する真理を含む、すべての真理に対する信仰を失うと、信者は未信者の状態に戻ってしまいます。逆に、みことばの水を飲むことによって、「良い土壌」、つまり、受容的な心を持った信者に植えられた信仰の植物は成長します。成長のためには、土壌が良くなければなりませんが(真理を受け入れようとする意志)、真理、すなわち御言葉の水を実際に受け取らなければなりません。神が聖書の中で私たちに与えてくださった素晴らしい真理をすべて享受するためには、私たちは喜んで「みことばの水」を探し求め、謙虚に受け入れなければなりません(ヤコブ1章21節; 詩篇19篇2節[ヘブル]; 詩篇42篇1-2節, 68篇26節; 84篇6節; 87篇7節; 107篇35節; 110篇7節; イザヤ8章6節; 11章9節後半 ; 35章6-7節, 41章17-18節, 44章3-4節; エレミヤ2章13節, 17章13節; エゼキエル47章8-12節; ゼカリヤ13章1節; エペソ5章26節; テトス3章5節; ヘブル6章7-8節; 第一ペテロ3章21節[ギリシャ])。
あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる。いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。 (詩篇 36篇8-9節)
神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。 (詩篇63篇1節)
あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ。 (イザヤ12章3節)
「さあ、かわいている者はみな水にきたれ… (イザヤ55章1節)
イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 (ヨハネ4章13-14節)
イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。 (ヨハネ6章35節)
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊(すなわち、生命を与える「真理の水」を照らすお方)をさして言われたのである。すなわち、[しかし、この時点では]イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、[バプテスマのうちに]御霊がまだ下っていなかったのである。 (ヨハネ7章38-39節)
わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。(第一コリント3章6節)
(出エジプト世代は)みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の(人が信じる真理を象徴する神から与えられた水を)岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。 (第一コリント10章4節)
彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑の[熱]も、彼らを侵すことはない。 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。 (黙示録7章16-17節)
御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。(黙示録22章17節)
一方、この真髄であり、命を与える物質であるみ言葉の水が干ばつに見舞われ、それを受けようとする意欲が欠けると、霊的な渇き、枯れ、極端な場合には(種まきのたとえで、固い石地に植えられた種の場合のように)霊的な死を招きます。
(10)あなたの母は水のほとりに移し植えられたぶどう畑のぶどうの木のようで、水が多いために実りがよく、枝がはびこった。(11)その強い幹は君たる者のつえとなった。それは茂みの中に高くそびえ、多くの枝をつけて高く見えた。(12)しかしこのぶどうの木は憤りによって抜かれ、地に投げうたれ、東風がそれを枯らし、その実はもぎ取られ、その強い幹は枯れて、火に焼き滅ぼされた。(13)今これは荒野に、かわいた、水のない地に移し植えられ、(14)火がその幹から出て、その枝と実とを滅ぼしたので、強い幹で、君たる者のつえとなるべきものはそこにない。これが悲しみの言葉、また悲しみの歌となった。(エゼキエル19章10-14節)
しかし、福音の種を喜んで受けるだけでなく、真理の水で熱心に世話をする人々にとっては、最初は小さかったものがやがて巨大なものになり、神のみことばの真理の隠された宝庫のすべての神秘で、その人の心全体が満たすようになることもあります(箴言2章1-5節; 雅歌7章13節; イザヤ33章6節; マタイ13章52節; 第一コリント2章9-10節参照)。
そこで言われた、「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。 一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。 (ルカ13章18-19節)(マタイ13章31-32節; マルコ4章30-32節も参照)