神の家族に入る
以下は以前のヨハネの福音書について配信したものからの抜粋です。最後のところにつけたしをしました。
マタイの福音書の一番最後の節を見てみたいと思います。
それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
(口語訳マタイ 28:19-20)
これを新共同訳で読みますと、
「それゆえ、あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け…」とあります。
「父と子と聖霊の名に入れる洗礼」、これはおそらく、文語訳もそうだったと思いますが、内村鑑三氏はこのことについて、日本語訳の聖書には名に入れると書いてあります。新改訳や口語訳はそういう風には訳してはいないのですが、「名に入れる」というのは意訳であると言っています。
ギリシャ語の聖書の「ここの箇所では、『名にまで』とあるばかりである」とあります(ギリシャ語のエイスeis=にまで)。「まで」というのは、名前「に入れて」というよりも意味が強くなる。つまり、直訳するとこういう意味だと言っています。「万民の民を父と子と聖霊の名にまで、バプテスマし、これを弟子としなさい。」
このエイスという言葉の使い方ですが、「エイス・アテネ」の意味は「アテネまで」、「エイス・トゥキョウ」となると、「東京まで」、という意味になるそうです。 また、内村鑑三氏によると、この「エイス」には三つの意味が含まれていると言うことです。
つまり、第一は方向を表す「にまで」。
第二は、「そこに向かっていく」動作の継続性。
最後に、目的地に示す「目的」を意味します。つまり、方向と、継続した動作と、目的を示すと言う事です。ちょうど私達が東京まで行きます、というのと同じ使い方なわけです。
そうすると、「父と子と聖霊の名にまで、浸透させるバプテスマ」というのは、継続していることで、一回の儀式の事を言っているのではない、ということになります。「父と子と聖霊の名にまで」とは、「私たちは聖霊と父と子と一つになるまで浸透し続ける」という意味になり、それによって弟子となるわけです。
――家の「名前」に入るとなると、養子としてその家の名前を持つようになる、とか嫁いでその家の姓を名乗るものとなる、また門弟も、弟子入りすることで、その名を持つようになります。
第一ヨハネの1章3節には、「すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。 」
とあり、私たちは三位一体の神の家族の交わりに、聖霊によって招かれているということです。神の家族にはいる、ということです。昨日の配信メールにもあったように、洗礼という言葉は、ギリシャ語のバプティゾーからで、性質を一つにするという意味です。つまりここでは三位一体の御方と一つに結ばれる、につく、ということです。いただいた名に恥じない、光の子として今日一日、歩めますように。御霊によるバプテスマによって、これがなされるのです。一日を通して、御霊が心と思いを満たし続けてくれるように、世の汚れた思い、ゆうわくから守られるように祈りつつ歩むことができますように。