キリストにつくバプテスマ
キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。(ガラテヤ3章27節 新改訳Ⅳ)
「キリストにつくバプテスマを受けた」(新改訳Ⅳ)「キリストに合うバプテスマを受けた」(口語)「洗礼を受けてキリストに結ばれた」(新共同訳)…これらは、聖霊によるバプテスマのことを指していて、「バプテスマ」はギリシャ語の「バプティゾー」、「~につく/~に合う」は、「エイス(-の中に;英語ではinto)」というギリシャ語がつかわれています。
「バプティゾー」は漬物や染物の浸す/漬けるという意味があり、「性質を一つにする」という意味で用いられています。
つまり、「キリストにつくバプテスマ」という意味は、「キリストの中に入ってキリストと一つになる」(英語ではbaptized into Christ)ということです。
これを水の洗礼に置き換えてしまうと、意味がずれてしまい、数々の解釈的な問題を引き起こします。
次の聖句にある「モーセにつくバプテスマ」にも同じギリシャ語の「バプティゾー」と「エイス」が使われています。
第一コリント10章1-5節 口語訳:
(1)兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、(2)みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。(3)また、みな同じ霊の食物を食べ、(4)みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。(5)しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
出エジプト記では、パロの軍勢に追いかけられたイスラエルの民はモーセに率いられて、二つに分けられた海の間、つまり乾いた海底を歩いて向こう岸に渡りました。しかし同じことをしようとしたパロの軍勢は海に飲まれて滅んでしまいました。モーセと一つになった民は、向こう岸にたどり着くことができ、モーセと一つではなかったエジプトの軍勢は裁きに遭ったのです。
モーセの中に入った民というような表現は、一人個人を指す言葉が団体全体を指すという形でよく聖書で使われます。たとえば、「イスラエル」という言葉は族長ヤコブの別名です。彼の新しい名前でした。しかしその子孫、あるいは大きくなった国全体も、イスラエルと呼ばれます。一個人を呼ぶ名をもって全体を指すというのはよく聖書の中で用いられている表現法です。ですから「モーセにつくバプテスマを受けた」ということは、イスラエルの民がモーセと一つになって、神に従ったことを指すのです。このバプテスマは水とは関係なく、かえって乾いたバプテスマであり、乾いた地を歩むことになって救われたのです。
残念ながら、イスラエルは、こうして裁きから救われたにも関わらず、最後までモーセと一つになってはおらず、途中で滅ぼされてしまいました。モーセが神の言葉を告げていましたが、共に歩んでくれていたのは岩なるキリストであり、キリストの霊に対して不従順だった民は途中で滅ぼされたとあります。
今日、キリストの霊に浸り、キリストの中に入り、キリストと一つになって(キリストを着て)、一日を過ごすことができますように。