主の山に備えあり

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2024年7月28日

主の山に備えあり

これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。 アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。 三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。 そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。 アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。 やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。 アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。 み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。 それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。 主の使は再び天からアブラハムを呼んで、 言った、「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、 わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、 また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」。 (創世記 22章1-18節)

アブラハムが息子をささげた時、どうしてこれをするのか、そうしたら、どうなるのか、全部わかっていなかったことは確かです。しかし、彼がわかっていた一つのことは、これをすることを神が自分に望んでいるということでした。

 聖書から、アブラハムは、たとえ息子イサクを死にわたしたとしても、生き返して自分に戻してくれると信じていたとあります。

彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。 (ヘブル 11章19節)

しかし、どうやってかは、知る由もなかったことでしょう。それは彼には隠されていました。はじめから全部を知らされていたら、それはテストにはならなかったからです。

  しかし、アブラハムが神に従って、それを行った時、神はイサクの身代わりを備えておられました。

私たちには、理由が分からず、ただ犠牲にしか思えないことがあります。どうして神はこれを私たちに望まれているのか、一から十までわからないのです。

この世では、どんな仕事を請け負うにも、初めから最後まで顧客と、話して決めておきます。そしてその通りにするのです。しかし、神様は、多くの場合、わたしたちがただ信頼して神様の言われたことに従うかどうか、見ておられるのです。

 神様が聖書を通して語られていること、イエスの見本を通して語られていること、聖霊が御言葉の裏付けとして語り掛けていることに、私たちが従うかどうか、見ておられるのです。

信頼し、従う者に、神様は必ず報いて下さいます。信頼し従うには、信仰が要ります。

「信仰が無くては、神に喜ばれることはできない」

主よ、わたしたちは、あなたの導きと信じて、今まで進んできました。いろいろなことが起こりますが、あなたはその全てをご存知です。そして全てのことを通して、御計画を果たして下さいます。ですから、あなたに信頼します。

だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。 (マタイ6章9-13節)

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