被災の中の希望

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2024年7月26日

被災の中の希望

昨夜、勝利に酔いしれたキリスト者の集まり(近所のクリスチャンの若者の信仰の旅の報告–あとで分け合うことができるかと思います—この集まりの間中、雷が鳴り稲妻がしょっちゅう光っていました)が終わり、解散して戸を開けると、何と道の上を泥水の激流がありました。短い距離でしたが、歩いていくには大変な流れだったので車に乗って帰ってもらいました。その後、あふれる沢の流れを堰に誘導するため、コンクリートブロックや土砂で流れた石で、道路に流れないようにしていたら、そこに息子がやってきて助けてくれました。

「パパ、ここ抑えていて。僕は丸太もってくるから」っていう感じで、二人協力しあって働くことができました。ちょうど、先ほどの集いで、姉妹が「絶えず喜ぶこと」を分け合ってくれていました。私もこうした状況でも「喜ぶ」としたら、久しぶりに息子と一緒に力出し合って、働けるということかなと、思いました。ヘルニア手術してから、もう一カ月も経ったことも感謝でした。ある程度の力仕事はもうできるようになったので、こうしたことに対応できるように手術を終わらせておいてよかったぁ、と感謝!

 数時間の奮闘の後、堰に水が落ちるようにいろいろ工夫した末、何とか水が、私たちの積み上げた土手を乗り越えないほどになりました。

 翌朝、土砂と木くずで散乱した道路を片付け始めていたら、娘が助けに来てくれ、次には修平君も来てくれました。一段落がついてから、私は少し休憩とりに家に入りました。すると、わいわいにぎやかな声が聞こえてきます。近所の人達が皆、出て片付けをしてくれています。私も出てみると、何とすごい光景、先ほどは、道路に散乱する石ころや木くず、そして泥が家の庭に流れ込んでいた光景で、痛々しい洪水の爪痕でしたが、今目の前に見える光景は、泥掻き出しにいそしむ若者たちの姿でした。近所のおばさんが、私に「見てください。こんな光景、若者たちがこんなに大勢、これ<過疎の>田舎だと思えません…」すぐに対応してくれた近所の人達と若者たちに感謝!! お互いの交流が深まり、床下浸水したお隣さんも、「一週間かかるかもしれないと思ってたけど、こんなに早く片付けができるなんて、驚きだ」と。

 老人が多数を占めるこうした村で、若者たちがまだいてくれている、何かあった時には、こうして出動してくれる、これほど、頼もしいことはありません。近所の人達は、この若者たちがクリスチャンであることは、もう知っているので、主の愛の証として、主は用いられたと思います。そして、私たちの祈りのリクエストに応えて、熱心なお祈りをささげてくださった皆さん、ありがとうございます。

 もし、主が導いて下さらなかったら、私たちの肉の力では到底かなわない、激流でした。しかし主が知恵と導きを与えて、成し遂げてくださいました。

 またこうしたことが許されたのも、主は私たちに霊のうちの戦いの激しさを示されたのだと思います。また私たちが今主の導きに従ってしようとしていることがとても大切なものであるゆえに、その戦いも激しさを極めていることを、示しておられるのだと思いました。しかし、敵がどれだけ洪水のように押し寄せても、主の力はそれに勝ります。主が私たちのために戦ってくださいます。

 敵が川のように押し寄せるとき、主の霊は敵に対抗して旗を掲げる。(イザヤ59章19節後半  この節の訳についてのルギンビル博士による注釈)

 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。 このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。 たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。〔セラ (詩篇 46篇1-3節)

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