主が共におられた

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2024年7月25日

主が共におられた

最も尊いものが、時間をかけて暗い中で生成されるという自然の法則には、たくさん学ばせられることがあります。

ジャガイモをそろそろ掘り出すころになりましたが、何日もかけて土の中で大きくなりました。明るい陽射しにさらされていたら、青くなって食べることができなくなりますので、しっかりと土の中に埋められているように見届けておかなければなりません。ジャガイモ一つとってもそうですが、鶏の卵から出てくるヒヨコも受精した後、卵の殻の中で二十日程温められていなければなりません。

おいしい発酵食品も閉じ込められた容器の中で、長い間置いておかれなければなりません。しかしついに、これらのものが、表に出される時、その内側に起こった熟成の変化に驚かされます。

ヨセフの若かった時の生涯は、長い間牢獄に閉じ込められていたことで有名ですが、彼のそうした長い暗闇ともいえる期間が、後のエジプトのパロに次ぐ地位にふさわしい人に造り替えたのです。

ヨセフは、兄弟に憎まれ奴隷として売り飛ばされました。彼は売り飛ばされた地で、パロの役人に買い取られ、その家で働くことになりました。彼はそこで幸運な者となったと聖書に記されています。

主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。 その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。 (創世記 39章2-3節)

しかし、幸運と思える期間もつかの間、彼は濡れ衣を着せられ、自分の罪でもないことのために、長い間、王の牢に入れられます。しかし、ヨセフは、獄屋番から信頼され、獄屋の管理を全て任せられます。

主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。 獄屋番は獄屋におるすべての囚人をヨセフの手にゆだねたので、彼はそこでするすべての事をおこなった。 獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた。 (創世記 39章21-23節)

ヨセフがパロの役人の下で、管理者として働いた事、また獄屋で責任を任せられたこと、これらの経験は全て、後にエジプトの宰相として、国を治めるために用いられることになりました。それらは、自由の利かない閉じ込められた長い期間でしたが、神の御計画の下、最善の訓練がなされていた時でした。そして結局、ヨセフは、自分の全家族をききんから救い出すために神によって用いられることになりました。牢獄に閉じ込められたヨセフを見たら、誰が将来の彼の姿を想像し得たでしょう。神があえてその愛する者を暗闇と思えるところを通過させるその御計画は計り知れません。

また彼らの前にひとりをつかわされた。すなわち売られて奴隷となったヨセフである。 彼の足は足かせをもって痛められ、彼の首は鉄の首輪にはめられ、 彼の言葉の成る時まで、主のみ言葉が彼を試みた。 王は人をつかわして彼を解き放ち、民のつかさは彼に自由を与えた。 王はその家のつかさとしてその所有をことごとくつかさどらせ、 その心のままに君たちを教えさせ、長老たちに知恵を授けさせた。 その時イスラエル(ヨセフの父であるヤコブとその家族)はエジプトにきたり、ヤコブはハムの地(エジプト)に寄留した。 (詩篇 105篇17-23節)

すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

(ヘブル12章11節)

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