震われない国を受け継ぐ

震われない国を受け継ぐ

私たちは、この世の君が支配する、世界の中で、主の子供として歩む時、欺きと誘惑の氾濫している中で、神の細い御声に従っていこうとしています。

敵である悪魔は、この世の与えることのできる名声、評判、快適さ、富をもって人の判断を鈍らせ、間違った選択をさせようとします。

サタンがイエス様がその宣教を始めようとされる時に、誘惑して語ったことの一つは、次のようなものでした。

それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。 (ルカ4章5-7節)

荒野で、誘惑に打ち勝ったイエスが、会堂でご自分について語られてある預言を読まれて説明されたことが、この悪魔の誘惑の記されている聖書箇所のすぐ後にあります。

それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、

「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。

イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。 (ルカ4章16-21節)

悪魔が提供した「国々の権威」と「栄華」に対して、対照的に、イエス様が神より受けている使命は

貧しい人々に福音を宣べ伝え…

囚人が解放され、

盲人の目が開かれることを告げ知らせ、

打ちひしがれている者に自由を得させ、

主のめぐみの年を告げ知らせる

ことでした。

 この世が、求めているもの、また賞賛しているものと、イエスが神の子としてこの世で行おうとしている使命と全く異なります。そして私たちも同じように、この世の誘惑にさらされています。

 イエス様が読み上げられたイザヤ書の預言は、メシアの出現についての預言でしたが、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」とイエスは言われました。ところで、イエス様が読むために渡されたイザヤ書のこの箇所にはこうあります:

(1)主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、(2)主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め…(イザヤ61章1,2節)

 そしてそれに続く3節も読むと、

(3)シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。 (イザヤ書 61章3節)

 

  この預言の完全な成就は、メシアが治める千年王国の預言です。今は、イエス・キリストによる福音による恵みに与っている時代です。イエス様は、「主の恵みの年を告げ知らせ」と読まれ、そして「この日に成就した」と言われましたが、その次の「われわれの神の報復の日」は成就されませんでしたから、読み飛ばされました。つまり、この短い一句の意味する、メシアの最初の出現と、後の神の報復の日の間には、(人間にとっては長く思える)時間のギャップがあります。しかし、イエス様が二千年前に読まれなかった部分の成就、神の報復の日(=主の日、つまり主の再臨)の時は、確実に近づいています。

 私たちは、確かに神の恵みに与っています。

神の恵みを無駄に受けないようにしてください…「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6章1, 2節-新改訳Ⅳ)

 イエス・キリストを通しての神の恵みに与って、今日、神の子として、光の子としての歩みを始めましょう。

気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。 また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。 あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。 (ヘブル 12章15-17節)

あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。 あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。 この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。 このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。 (ヘブル書 12章25-28節)

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