委ねる

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2024年7月20日

委ねる

本当に「ゆだねる」ということは、

自分の手から離して神様の御手のうちに、置くということです。

祈った後も、心に煩い、悩み、心配があるなら、まだ神の御手に「ゆだねる」ことをしていない状態です。

何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 (ピリピ4章6-7節)

神は最善を知っておられ、最善をしてくださいます。神様にこれをされたら困ると思っているなら、委ねていないところがあるのではないかと思います。死ぬも生きるも、また恥を負うも、神様にゆだねることができて、「御心がなされますように」と祈ることができれば、大いなる平安が宿っていることでしょう。

しかし、神は、私たちを無為に懲らしめたり、低くしたり、苦しみを通過させられる方ではないし、また私たちの気持ちを汲まれる方です。だから、私たちの「求めるところを神に申し上げる」ことの意味があるのです。神様がそのような私たちの苦悶しているところ(神様から見たら、さぞちっぽけなことなのかもしれません)に、神様は思いやりをもって対処してくださいます。

愛の神です。だから、こんなちっぽけな存在、間違いだらけで、また自分の間違いを刈り取っているような事態を、神様の前に持ち出すということが、毎度、申し訳ないように思えても…それしかない… 特に、主の御名を唱っている者に対して、主が自分の罪を十字架の犠牲によって贖って下さったと信じている者に対して、主は子としての訓練を施して、成長を見届けておられると言っておられますから。(へブル12章7-9節

そんな神様に、すべて心にあることを、申し上げ終わったら、もう心配しません、あなたの思いどおりに、と祈ると、ただ平安に包まれます。–第一そもそも、試練は、私がしがみつくべきでないもの(恥ずかしい目には遭いたくないとか、自分の無知さ加減を知られたくないとか…)を手放すようにと働きかけて下さっている場合が多いからです。

  それらの、自分がかつぐべきだと思っていた重荷も、担ぐべきではなかった重荷も、イエス様の下で、おろすと、平安が宿ります。

わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。 (ヨハネ14章27節)

「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。

(ルカ22章42節)

イエス様だから、成し遂げることができた、全世界の罪のための犠牲、しかし、御心を求めることは、わたしたちにも求められていることです。

だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。<地を歩むこの私の一日において、みこころが行われますように> (マタイ6章9-10節)

どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、 教会<エクレシア-召された者の集まり>により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。 (エペソ 3章20-21節)

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