霊の激戦地

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2024年7月19日

霊の激戦地

「…そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロ<ペトラス(石/転がる石)>である。そして、わたしはこの岩<ペトラ(大きな岩)=イエス・キリスト>の上にわたしの教会<エクレシア>を建てよう。黄泉の力も<霊媒師などの祈祷によって地上に招かれた霊どもの勢力も含めて>それに打ち勝つことはない。 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。 (マタイ16章18-19節)

よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。 (マタイ18章18-20節)

「…あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ16章19節) とありますが、この「天」は、高き天だけではなく、私たちの頭上を鳥が飛び交う空の空間も含め、また霊の世界のことも指します。文脈から、「黄泉の門」の事が述べられたすぐあとですから、この「天」を「霊の世界」とも捉えることもできます。つまり私たち地上にいる者たちが心を合わせて祈る祈りが、霊の世界においてイエス・キリストによって、権威ある力が行使されるということです。

パウロが「わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。」(第二コリント人への手紙 12章2節) と言っていますから、第一、第二の天があるとわかります。よく第一の天は、成層圏、第二は成層圏外(宇宙)、第三が天国と解釈される場合が多いです。(旧約(ヘブル語)でも使われている「天」は、複数形なので、この解釈に合致しています)。

 そうなると、エペソ書 2章1-2節の「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。」

「空中の権を持つ君」(目には見えないけれど空中において支配権を持っている悪魔・悪霊ども)は、現在、不信者に対して、力を持っているというので、空中において権力を有していると解せます。つまり、私たちが生活しているこの地上の空間における敵の影響力があるわけです。そうした所から遠く離れていたい、悪霊に操られているような人とは接触を持ちたくないと思っても、そのような場所は、現在地上では見出せないと思います。パウロが、「…もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。」(1コリント人への手紙 5:9-10)と言っているとおりです。

わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。 わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。 真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。 あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。 また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。 わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。(ヨハネ 17:14-20)

私たちは、世の中で生きて主の召しを果たすように、この世に遣わされているので、私たちの戦いの最前線は、私たちの思いの中で行われているのです。ですから、イエスは、この世にあって、私たちの思いと霊が守られるようにと祈られたのです。私たちの戦いの最前線は、私たちの思いの中、思考の戦場でなされています。

わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。 わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、 神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ…(2コリント 10:3-5)

神との交わりを妨げる障害物、神の御心と御計画を受け入れたくない思いの障害物は、まさに自分の心、思いの中にあるのです。この障害物が取り除けられた時、神の御霊が、自由に働く機会を持つのです。黄泉の影響力によって作り上げられた要塞は、私たちの思いの中に据えられてあり、悪霊どもは、そこにアクセスしやすいのです。この要塞をまず、打ち壊す必要がありますが(そしてイエスの力によってそれができるのですが)、私たち自身が、それを認め、告白し、悔い改め、呼び求めることをイエスは待っておられるのです。

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