このために…
夕暮になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきた。 こうして、町中の者が戸口に集まった。 イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。 朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。 すると、シモンとその仲間とが、あとを追ってきた。 そしてイエスを見つけて、「みんなが、あなたを捜しています」と言った。
イエスは彼らに言われた、「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」。 (マルコ1章32-38節)
私たちは、簡単に奉仕の罠、行いの罠、それが教会の奉仕と呼ばれるものであれ、慈善行為であれ、それらのことに時間も行動も囚われてしまいがちです。人々はイエスの奇跡の恩恵を受けました。人々はイエスからもっと恩恵をもらいたかったので、イエスを探しまわります。彼らの願いは、癒しがほしい、パンがほしい、魚がほしい、奇跡を見たい、早く外国支配勢力からこの国を解放してくれ… イエスは、これを知って次のように言われました。
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。(ヨハネ6章26節)
しかし、イエスは、そこを立ち去ります。人々は、イエスのそばにいれば、パンと魚をもらえると思っています。そして病気になったら治してくれる、この人の人気を使ったら我々の運動がうまくいくかもしれない…我々を救ってくれ、いやしてくれ、満たしてくれ、耳障りのいい説教をもう一つ聞かせてくれと。しかし、イエスは大勢が集まり、人気が出たかと思うと、人々を立ち去らせます。いつもそばに置いておいたのは、わずか一握りの弟子たちです。そしてイエスも、その人気の場所を立ち去るのです。「教えを宣べ伝えるため」つまり福音を伝えるためです。
「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」
「チャリティ・ワークはしていいです。でもそんな宗教パンフレット(福音トラクト)は配らないでください。」「医療ワーク、食物配給はしていいです。しかし宗教活動(福音宣教)はしないでください…。」イエス・キリストの福音こそ、人々が必要としている真の解決策なのに…
そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。 (ヨハネ3章19節)
闇の世の中で、福音の光に生きる者にとって、容易なことではありません。それは十字架をかつぐものとなることです。イエスは、御自身についていく者に、前もってその道が困難であること、しかし、究極的には、自分の命を救うことになることを告げられました。
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。 (マルコ8章35節)
ですから、イエスとイエスの教え(御言葉)を求めましょう。神御自身こそ、光であり、命、愛、道…。神の御前で静まって、聖霊のささやきに耳を傾け、そしてイエスの言葉を行う者となりましょう。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 (ヨハネ14章6節)