神に知られる
もしイエス様が王の王として再臨される時、「わたしはあなたを知らない」と言われたら、どんなに驚き、びっくりすることだろうか。当時、神を信じ愛していると思っていた宗教家たちは、神であるイエスに「あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている…互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。」と言われた(ヨハネ5章42,44節)。
主が天の栄光のもとに王として再臨される時、次の聖句にある「多くの者」の中の一人となることは、どんな気持ちだろう。自分は神の民と思い、また自称していても、実はサタンの会堂に属していたということがあることを聖書の言葉は告げています。「主よ、」と呼ぶ「多くの者」が主によって「あなたがたを全く知らない」と言われる時がくるのです。自分がまさか背教しているとは思わずに、実は背教への道を辿っているということがあるのです。
…その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。 (マタイ7章22-23節)
現在、試練の中においても主を愛して従っていく者に、「わたしはあなたを知っている」と言って下さる。
主は主の子供達を知っていて下さる。
「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている…」「あなたが…サタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、知っている」「わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう」(黙示録2章9節, 3章9節)
神が愛してくださっておられることを考えてみましょう。そしてこの方を愛するということがどういうことかを。
「愛さない者は、神を知らない。神は愛である」(第一ヨハネ4章9節)
「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。」(第一コリント8章3節)
人からの誉を受けずに、ただ神の誉を求めるということはどういうことだろうか?
自分にとって「神を愛する」ということはどういうことだろうか?
人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、やぎを左におくであろう。 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。 (マタイ25章31-40節)
それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。(マタイ6章4節)