仕える者に…
「偉くなりたい、立派な人になりたい…」 無垢な気持ちのように思えますが、そこには、人に(世に)認められる者に…という気持ちが伴ってしまいます。子供は、「偉い」というのが何なのかわかりません。人の目、賞賛を気にする大人が無意識に使う言葉を聞いて、その価値観が摺り込まれてしまいます。なにより、罪の入った私たちの性質には、「<相手よりも自分が高いと思い込みたい>神のようでありたい」という誘惑が潜んでいます。
私たちは、この世の価値観にあまりにも深くとらわれてしまっているので、新しく生まれた御国の子として、新しい価値観を身につけていかなければならないのです。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。 (マルコ10章42-45節)
せっかく、御国の新しい教えに耳を傾けても、世の習わしに染まってしまった心は、この世の影響に簡単に引きずり落されてしまい、福音と共に御国の教えが実を結ばないで終わってしまうということになり得るのです。ちょうど種まきのたとえにあるいばらの地に蒔かれた種のように、世のこころづかいによって実を結ばなくなる人のように。
また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。 (マタイ13章22節)
仕える人になるのは、人からどう思われるかが気になって仕える人のようにふるまうのではなく、神の愛に応えて、仕える道を歩む決意をしているからです。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。(ピリピ2章6-9節)
永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。 (ヘブル9章14節)