箱舟の中に

j
2024年7月5日

箱舟の中に

主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。 しかし、ノアは主の前に恵みを得た。 ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。 (創世記 6章5-9節)

時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。 神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。 そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。 あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい…(創世記 6章11-14節)

ノアの洪水の時、ノアの家族のいるところ、暴虐が地に満ちていました。

この地上で行われていることについて、神は心を痛めることばかり。神の裁きは定められ、安全なところは、唯一箱舟の中でした。

なぜ箱舟だけだったかというと、箱舟の中のものを救うこと、全地をその邪悪さゆえに滅ぼすことを神がなそうとしておられたことだからです。

ノアとその家族が神の御心にかなって、箱舟に入れたのは、ノアが義人であり、神に対して全き心を持っていたからです。

 安全は、神に近くあること、心に思うことが神の御心に沿ったことである必要があるのです。神は心を見られます。そして私たちは逃れ場を求めて、神の御心のうちにいること以外、何一つこの地上で安全な所はないのです。

 詩篇91篇の保護の約束は、まさに神の御心のうちに留まることからくる平安、保護です。私たちにとっての箱舟は、主の保護の翼の下にあることです。

 私たちが思いを主と主の御言葉に留めておけますように。

わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。 (詩篇 19篇14節)

詩篇91篇

いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。

主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。

主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。

そのまことは大盾、また小盾である。 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。

また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。

たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。

あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。

これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。

彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。

あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。

彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。

彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。

わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。 (詩篇 91篇1-16節)

人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 (マタイ24章37節)

他の投稿もチェック

神の言葉によって

神の言葉によって 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。(ヘブル11章11節) 自分のうちには、力も気力ももう残ってはいないと思えても、この朽ち果てて行くからだに、もし神が御声ををかけて下さるなら、その御言葉の種が命を与えてくれることを知っています。神の御心は成し遂げられるからです。...

洪水(信仰のテスト)に備える

洪水(信仰のテスト)に備える 人生、八方塞がりのような場所に立たせられる時が、誰にでも幾度かあるのではないでしょうか? 今、もしかしたら、そうした困難に遭遇している方もおられるかもしれません。世界の情勢がますます混乱に向かっている中、人々もそれに巻き込まれたり、またそうでなくても周りを見て不安に感じ将来に対する行き詰まりを感じている人も少なくないと思います。  イエスが人々から殺されかけた時のことについての、次のように聖句があります:...

前のものに向かって

前のものに向かって わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 (ピリピ 3章12-14節)...