み言葉の真理のうちに留まる

み言葉の真理のうちに留まる

イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。 (ヨハネ8章31-32節)

不意の攻撃ほど、痛手を被らないことはありません。

悪魔の攻撃は、恐ろしい形相をして、ミツマタの槍をもってのものではありません。敵である悪魔の攻撃、食い尽くすべきものを求めて歩き回る敵の攻撃は、ずるがしこく、光の天使に偽装し、御言葉を使って、人の理性に訴えてくるものです。イブとアダムもまんまと悪魔の策略にはまってしまいました。

イエス様にはしょっちゅう悪魔がまとわりついていたと思いますが、ペテロの口を通してイエスにアプローチした例が聖書に記されています。イエス様が、いよいよ天の父よりの召しを果たすために、十字架にかけられる時が近づいていることを弟子たちに語られた時のことです:

この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。(マタイ16章21-23節)

ペテロのイエス様のことを気遣う思いを悪魔はうまく使って、イエス様が神よりの召しを果たすよりも、人の思いと感情を優先させて、的を外させようとしたのです。

同じペテロの口を通して、イエス様に賞賛されるような信仰の言葉が語られたばかりでした。上記の箇所の直前の聖句です:

そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。(マタイ16章15-17節)

普通の親しい人、あるいは家族、友人との会話の中で、何気ない言葉の中に、私たちの信仰や神様に付き従うことを揺らがすような、真理から逸らさせて、父の御心を外させてしまうようなことは、突如としてやってきます。そんなことが起こっても、私たちはぐらつくべきではありません。それは敵である悪魔の常とう手段だからです。

私たちは穏やかにして、主に信頼して主の望まれることに思いを集中させて、主に従っていればいいのです。敵である悪魔は私たちが道を踏み外して、御心を行うのではなく、保身に集中させたり、人から言われたことに思い煩ってしまったり、あるいは高ぶらせたりしようとします。以下の詩篇119篇の作者のように、神の御言葉の真理のうちに留まっていることができますように。

たとい、悪しき者のなわがわたしを捕えても、わたしはあなたのおきてを忘れません。 (詩篇 119篇61節)

高ぶる者は偽りをもってわたしをことごとくおおいます。しかしわたしは心をつくしてあなたのさとしを守ります。(詩篇 119篇69節)

高ぶる者に恥をこうむらせてください。彼らは偽りをもって、わたしをくつがえしたからです。しかしわたしはあなたのさとしを深く思います。 (詩篇 119篇78節)

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