時は縮まっている…
戦争体験をされたご婦人から、「来たる艱難期」のシリーズを読んだ感想を聞かせてもらっていました。「私は、戦争体験者ですから、厳しい状況というものがどういうものか、わかっているつもりですが、これを読むと比べものにならない状況が起こりますね…」と言っていました。
その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。(マタイ24章21節)
しかし、主は私たちを備えていてくださいます。私たち主の子供達を教え、精神的にも霊的にも、実際的にも主が助けて下さっています。私たちは、主の語られていることに、聞いて従うことによってその備えがなされていきます。 主は、すべての子を愛しておられます。まして主の子供たちによくして下さらないわけはありません。主の訓戒は、終わりの時に臨んでいる私たちが、なおさら真剣に受け止めるべきことです。訓練のための試練は神の祝福を受けるためです。
試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。 (ヤコブ書 1章12節)
だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。 兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。 兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。 (ヤコブ書 5章7-11節)
わたしはこう考える。現在迫っている危機のゆえに、人は現状にとどまっているがよい… 兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、 泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、 世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。 (第一コリント7章26節, 29-31節)
主は試練の最中で、慰め、供給し、導くことのできる方です。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。 (詩篇 23篇4-5節)
試練の最中において主の訓練を軽んぜず、私たちの導き手であり、羊飼いである主の近くにしっかりととどまっていることができますように。
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。 あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。 また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
(ヘブル書 12章2-6節)
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。……すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。(ヘブル書 12章7, 11節)