愛する者のためのとりなし

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2024年6月20日

愛する者のためのとりなし

私が家出していた時のことは、他のところで分け合っていますが、その裏話というか、後になって近所のおばさんから聞いたお話です。

「私の旦那が仕事で函館に立ち寄った時、あんたらしい人を見たと言っていました。それであんたのお母さんに話したら、あんたのお母さんは、『そのままにしておいてあげたい』ということだった」

私は、その時、確かに函館にいたので、このおばさんの旦那さんが見た私らしき若者は、私だったに違いありません。母は、学校の先生から捜索願いを出しましょうか、と言われたけれども、「息子がどうしてもここにいれないと思って出たのだから、騒ぎ立てないほうがいい、ひとりにしておいてあげたらいい」と言って、捜索願いを出さなかったそうです。

人生の答えを探して、魂の渇きに泣き叫んでいた当時の私の心を鎮めることができたのは神御自身しかおられませんでした。それを近くであるいは遠くで見ていなければならなかった私の周りの人達の心配は、大変だったと思います。しかし、神は私に出会って下さり、答えを見出すことができたのです。

ここで聖書にある一つの例を思い出します。それは、親の目には、この子には生き残る道が断たれると思えた絶望の状況の例です。荒野で飲む水が尽きた、泣き叫ぶ子供イシマエルとその母親ハガルの話です。

…ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。 やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、 「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。 神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。 立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。彼女は行って皮袋に水を満たし、わらべに飲ませた。 神はわらべと共にいまし、わらべは成長した。彼は荒野に住んで弓を射る者となった。 (創世記 21章14-20節)

自分の愛する者が、通過しなければならない困難を想うと、いても立ってもいられなくなる時がありますが、泣き叫ぶ声に耳を傾けられる神に、目を向けて、この神に共に叫び求めて神様が介入し、渇きをいやし、導いてくださるようにお祈りすることが、自分のできることなのだろうと思います。

御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 (ローマ8章26-28節)

また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。 ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。 彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、 このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。 そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。 あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。 (ルカ18章1-8節)

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