私たちは、どうやって自らを清く保つことができるでのしょうか?
この世に私たちは遣わされているということになっています。そしてこの世につかわされるのは狼の中の羊のようであると主は言われました。
わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。 (マタイ10章16節)
この世は狼だらけだから、私たちも狼のようになりなさい、とは主は言われませんでした。羊としての大切な、素直に従う性質を失ってはいけないということです。はとのような素直さを失うべきではない。
同時に、私たちは危険の潜んでいるこの世にあって、へびの賢さ、見えないものの中にある危険性をさとって避けることが必要なのです。聡(さと)い人は、見えるもの、聞くもの以上に主のさとしに耳を傾けています。
メシアである主ご自身のご性質に次のようにあります。
彼(メシア)は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、 (イザヤ11章3節)
若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。 (詩篇 119篇9節)
私たちは、すべてのこの世の悪から、自分の力で離れていることは難しいでしょう。注意してくれる親切な人に感謝ですが、数限りない危険性をすべて察知することはとても困難です。私たちの魂を導かれる主により頼む者は、幸いです。
主は私たちの羊飼いで、私たちその羊です。そして主は神であられるので、私たちの必要をご存じであり、危険な中にあってどこに行けばいいか知っておられる方です。
ダビデの歌
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。(詩篇 23篇1-6節)
主は悪をなすものを制され、裁かれます。主は主の子供達である私たちが、主の心にかなった者となることを望んでおられます。主を悲しませる罪については告白して離れることによって、主は私たちを受け入れて、従順な子として、諭したり導くことが容易です。自分は知っている、自分でやれると思っている自分の能力と知識に頼っている状態では、私たちがいかに無知な者であり、弱い存在であるかを忘れてしまっている状態です。
…知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。 もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。(第一コリント8章1-3節)
しかし私たちがへりくだって受け入れる状態であれば、神の憐れみと恵みによって、主は私たちにその過ちを悟らせてくださいます。
主の御前に、自分の罪深さ、弱さを言い表すと主はゆるしてくださいます。
わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、かれ果てた。〔セラ わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ (詩篇 32篇3-5節)
わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。 あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。 悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。 (詩篇 32篇8-10節)
わたしの羊飼いである主よ、今日も導いてください。