神を仰いで

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2024年6月16日

神を仰いで

あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。(ピリピ4章5節)

<聖書で「寛容」、あるいは「中庸」と訳されている>エピーケースεπιεικεςは非常に広い意味を持つ言葉です。エピーキアεπιεικειαと同じ意味で、温和、忍耐、譲歩、優しさ、冷静さ、節度、訴訟や争いを好まないという意味です。「マックナイト博士は、「エピーケース(寛容/中庸)」とは、挑発されても柔和であること、傷つけられたことを赦す用意があること、物事を対処する際に公平であること、他人の性格や行動を判断する際に率直であること、性格が優しいこと、情緒を完全に制御することを意味する 」と言っています。<–アダム・クラーク氏の聖書註解からの訳>

 困難な中、試練の最中にあっても、自分の感情を完全に制御している人を見ると、その柔和さと謙遜な態度の中に、固い決意、堅固な献身を感じます。何に対する決意、献身でそんなにも姿勢が揺るぐことがないのか、とその人に対する尊敬と畏怖の念を感じると共に、その人のことをそうあらしめている力は何だろうと思ってしまいます。そしてその人の信仰告白を知って、やはり主イエス・キリストだと知るのです。

  罪を赦してくださったひとり子なる神に対する忠誠心と誓いをもって、自分を罪から贖ってくださった聖なる方にふさわしい存在(聖なる者)となりたいという祈りのうちに一日を過ごしているからだと思います。彼らが恐れるのは、自分の敬愛する主を悲しませてしまうことです。主に喜んで頂くために、一日の巡礼の旅を全うしようとしているのです。ですから、中傷や誤解や、あからさまな挑発に耐えて、主に喜ばれる者でいたいのです。

 そして「主(の再臨の日)は近い」と思えば、尚の事ではありませんか。そのようなキリストの香りを放つ人のそばにいると、自分も主に倣いたいという願いが沸いてきます。

 …あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。  (第一ペテロ 1章15-17節)

口論に勝つ側も、負ける側も、どちらも口論の果てに、主に近づく代わりに、主から遠ざかってしまうのであれば、その口論の価値はどれほどのものでしょうか。この地上での争いによって、その勝ち負けによって寿命が短くなったり、あるいはもう少し長く生きたとしても、どちらも主を悲しませ、そのしたことの報いを受けることになったら、その争いはどれだけの価値があるでしょうか。

イエス・キリストの罪の赦しに与り、永遠の命を頂いた者が、主の召しに応えて生きたために、主と同じように世から中傷を受けて、イエスと同じように迫害され断罪され、殺されても、イエスと共に永遠に生きるとしたら、その価値は虚しくはありません。

もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。 悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。 あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。

キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた…(第一ペテロ 2章19-24節)

 

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