ひとしずく842-裁きについて
「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、また さばかれることがなく、死から命に移っているのである。」(ヨハネ5:24)
この聖句から、主を信じる私たちは自分がどんなに罪深く思えても、主は私たちを裁かれないということがわかります。私たちは、正直に自分の心を調べるな ら、そこ にはどうしようもない自己中心な思いがあり、神様から離れて勝手なことをしがたる自分が存在していることに気づきます。そして、それがわ かっているので、 なかなか神様に近寄れないでいるのです。そんなどうしようもない自分を神様が受け入れてくださるとは思えないのです。
しかし、主はそんな私たちのことをよく理解しておられ、こう言っ てくださいました
「わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。」(ヨハネ12:47) 主は自ら謙ってこの地上にやって来られ、私たちに近づいてくださったのです。そして私たちの罪の身代わりとなられよみが えられたのです。
「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、 神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ 8:34)
しかし、だからと言って全ての人間に対する「裁きの 日」 がイエス様の到来によって、なくなったかというと、そうではありません。最終的な裁きから免れるのは、イエス様の十字架上でのあがないを 信じ受け入れた人たちです。つまり救いという恵みを受け取った人たちなのです。
それを信じず、受け入れようとしない人は、イエス様に向って「あなたのそんな身代わりは私には不要だ」と言っているよう なもので、それは裁判での弁護人を自分は必要としないと主張するようなものです。赦しとあらゆる罪の代償を申し出て下さっているイエス 様を拒否しているのです。 そして、そういう人たちは、その自らの選択によって、裁きの前 に立つことになるのです。つまり父なる神様の裁きの際に、神の子のとりなしと弁護なしに御前に立つことになるのです。その時には、それぞれがその行いに応 じて裁かれると聖書にあります。
「死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つ の書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその 中にいる死人を出し、死も黄泉も その中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。」(黙示録20:12,13)
「おのおのそのしわざに応じて」とあるので、身に覚えのないことで不公平に裁かれたと思う人はないことでしょう。それぞれの言動が一切記されている記録が 開かれ、各人の記憶も甦り、公平な裁きを受けることになることでしょう。それぞれが、知り得た真理にどれだけ従ったかによって裁かれるこ とになるのです。 (ローマ1:20, 2:12-14)
「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、 その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろ う。」(ヨハネ12:48)とあります。イエス様の語った言葉は真理です。ですか ら各自に語りかけられ、知り得た真理に応じて、裁かれるので す。その人の心の中にある真理です。
ところで、イエス様を信じた人は、自分の行いによってではなく、ただ神様の憐れみによってイエス様の支払ってくださった 代価によって救われているとわかっています(エペソ2:8,9)。 しかしだからと言って、いったん救われたら、何をしてもかまわないというわけではありません。 それだけの愛と恵みを受け、また真理に与った私たちは、その主への愛ゆえに、どのような愛と行いをもって、これからの人 生を生きるかという ことが問われていると思います。主は私たちに、神の子として永遠の命に生きるという特権をくださっただけではなく、あらゆる天の知識に富ませてくださって います。しかしそれらの知識には責任が伴います。主はそれら多く与えられた者からは多くを求めておられるのです。
私たちがその恵みの中で、主の御心を行わず、自分の好き勝手なことばかりし続けているので あれば、ついにこの世の人生が終わり、主と対面する時に、どんな心痛を味わうことになるのでしょう?
この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 (マタイ25章30節)
主は、私たちが主を悲しませるなら、結局私たち自身が悲しみを味わうことになるということを知っておられます。主は私た ちがそのような悲しみに遭うことを望んではおられません。主が望まれているのは「忠実なしもべよ、よくやった」と言えるような生き方を、 私たちが最期まですることなのだと 思います。(マタイ25:21) 主は、私たちが忠実なしもべとなり、また「初めの愛」に生き続けるようにと、この地上においても訓練を与え、常に叱咤激 励し続けてくださっているのです。(黙示録2:4, ヘブル12:5,6)
どうか、私たちが主に喜んで頂ける人生を歩むことがで きますように。
「・・・土台はイエス・キリストである。この土台の上 に、だれかが金、銀、宝 石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを 明らかにし、また その火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、 その仕事が焼けて しまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。」(第一コリント3:11b-15)
「主が言われた、「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったい だれであろう。主人が帰ってきたと き、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろ う。しかし、もし その僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、その僕の主人は思いがけな い日、気がつかない時に帰って来るであろう。そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。主人のこころを 知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるようなことをした者 は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた 者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである…」 (ルカ12:42-48)