主イエス・キリストにあって

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2024年5月29日
ひとしずく831-主イエス・キリストにあって

 もし、冷たい理解のない視線が自分に当てられていることに気づいたら、感謝することにしよう。 主はいつも優しく慰めてくださるのだから。 「そんなこと気にしなくたっていい。私はあなたのしていることを理解している。さあ、全てのことを忘れて、横たわりなさい」と。
もし主の存在を肉の目で捉えることができたら、きっと主は私を暖かく抱いて、包んでいてくださっていると思う。
 そんな愛に包まれているのに、人の冷たい思いに自分の心が捕われてしまうなんて、おかしくなってしまう。 主の愛を感じていられるなら、自分自身に対する落胆と惨めな思いも吹き飛んでしまう。 自分や他の人に対する私の評価やものの見方は、相手が私に何をしたかや私に対してどんな思いを抱いているかによって変わるべきではないと思う。 私は、人の見解を判断の最終的なよりどころとしないし、したいとは思わない。
 それは、私を愛してくださって命を捨てて下さった方、また日々私を愛し続けてくださる方の導きに依るのだから。  私の願いは、主が私の中に生きてくださること。 ちょうど、パウロが「イエスキリストがわたしたちの聖となり、義となり、あがないとなられた」また「知恵」となられたと言っていたように、主は私にとってそのような存在になってほしいと願っている
 そんな願いを知っておられて、主は、私が敢えて失敗することで、必死に主に求めるようにしてくださる。また、私が敢えて、がっかりすることによって、愛と慰めをくださる。
 そうして主と私たちはますます、お互いを求め、近くなり、一つになっていく。
 「いつも喜んでいないさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい。これが主イエス・キリストにあって神があなたに望んでおられることである」(第一テサロニケ )   喜びも感謝も祈りも、それは全て主からの賜物、つまり頂いたものだ。過ちを赦して日々励まし、慰め、常にそばにいて助けて下さる主イエス・キリストがいてくださるから、私たちは喜ぶことができ、祈ることができ、感謝することができる。 「主イエス・キリストにあって」それができる。

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたち を慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。
 わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰め は、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。」(第二コリント1:3-7)

「さて、マケドニヤに着いたとき、わたしたちの身に少しの休みもなく、さまざまの患難に会い、外には戦い、内には恐れがあった。しかるに、うちしおれている者を慰める神は、テトスの到来によって、わたしたちを慰めて下さった。」(第二コリント7:5,6)

「神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。
 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。」(第一テサロニケ5:9-11)  

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