種まき

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2024年5月28日
ひとしずく829-種まき

 朝顔の種を買いに近くのガーデンショップに行きました。朝顔の他にも、何か庭を彩る花が他にないものかと、店員さんに尋ねてみました。店員さんは、親切に色々な種の袋を指してそれぞれの花について説明してくれました。しかしどの花の種についても、種から少し芽が出るまでは、庭に直接植えないでプラントで育てた方が良いと教えてくれました。この附近は雷雨が多いので、激しい雨で種が流されてしまうとのことでした。
 種の成長には、他にも鳥が食べてしまうとか、水が足りなくて土が乾いてしまうなどといった多くの困難があります。大きくなれば、害虫などの攻撃にも合うでしょう。
 だから園芸をする人は、植物の成長のためには、色々と気遣ってその世話をしてあげなければなりません。
 これは福音の種を蒔く者にとっても言えることだと思いました。
 私たちは、神様の真理の言葉を人々に伝えたいと思っています。それによってその人たちが幸せになると知っていますし、何よりも主イエス様が、私たちに福音を委ねられて、それを他の人たちに分ち合ってほしいと望んでおられるからです。
 そして福音を伝える際に、ちょうど種を土に植える時に、細心の注意が必要なように、祈りを込め、また愛を込めて行う必要があるのです。私は相手に福音を伝えたいばかりに、相手の心の状態を十分に察しなかったり、福音のメッセージのどんなところが受け入れ難いと思っているかを聞き出すことなしに、ただ自分の側から一方的に話してしまうことがあります。
 そうしたことをしている自分に気づく時に、反省させられ、もっと相手が受け入れやすい方法を考えさせられます。
 時には、キリスト教国やキリスト教徒の人たちの過ちのゆえに、つまずいてしまっている人たちもいます。それで、イエス様を受け入れるのが難しくなってしまっている場合が多いことに最近気づかされています。神の名、あるいはキリストの名のもとに、侵略している国、あるいは独善的な態度をしている人を見ると、そんなことをさせる宗教とは関わりを持ちたいなどとは誰も思わないことだろうことは理解できます。

しかし、最近読んだ本の中に「キリスト」と「キリスト教」は全く別なことだという主張を目にしました。全くその通りだと思います。もし「キリスト教」というものが、イエス・キリストが語った言葉を指しているのではなく、人間が歴史と伝統の中で、自分たちに都合よく解釈し、勝手に造り上げてしまったものであるなら、それはイエス様ご自身が福音書で語っておられることとはかなり異なったものになっている可能性があります。
 ですから、私たちは福音を伝える際に、イエス様の言っておられたことと反対のことをしていたクリスチャンたちの行いにより、つまづいてしまって、イエス様ご自身とイエス様の言葉にも心を堅くしてしまっている人に対して、余分な努力が必要になります。
 ちょうど、種を蒔く際に、土が堅くなってしまっている場合、まずそれを柔らかにする必要があるように。また乾燥している場合は、水をやって潤すように。
 私たちは誤解を解くために説明し、また傷ついた心の癒しのために、祈る必要があります。そして主の知恵を求めて、どのように説明したら良いのか祈るのです。
 種を蒔く際に、土がどんな状態なのかをよく見極めること、乾いているのか、固まっている状態か、石だらけなのか、肥えた土か、痩せた土か、酸性の土かアルカリ性の土なのか、陽が当たる場所なのかそうでないのか、普通の園芸家なら、よく調べ、それに応じて土作りをすることでしょう。
 同じように、私たちは福音を伝える際に、まず相手の関心、あるいはつまづきがどこにあるのか、良く聞いて調べる謙虚さが必要であると思います。
 私たちは、相手にいろいろと質問を尋ねることによって、少しづつ理解を深めることができます。特に主に相手の心の状態を示してくださるように祈りを込めているなら、私たちはもっと相手の心を正しく理解できるようになることでしょう。
 しかし、相手にあまり尋ねていないし、相手の心を十分知り尽くしていないから、といって、いつまでも福音のメッセージを伝えずにおくことは、どうかと思います。
 主は私たちの理解の不足、また伝え方の不十分さを補う力をお持ちです。私たちが自分たちの不十分さを主に告白して、相手の心を自分はわかりません、理解するのを助けてください、相手にわかりやすい形で福音を伝えるのを助けてくださいとお願いするなら、主は助けてくださいます。

 福音を伝えることは、特定のだれかの仕事というわけではないと思います。私に福音を教えてくれたのは、一人の学生でした。当時は私も学生でしたが、そんな私に、愛情深く忍耐をもって、聖書の言葉を教えてくれたのです。しかし、私は教えてもらっていることで感謝はしていたものの、反抗的になって、無神論の哲学書などを読み始めたりもしたのを覚えています。
 しかし、その人は忍耐をもって祈り続けてくれたのでしょう。私は、ついに聖書の学びに関心を持つようになり、楽しむようになったのです。そして私はイエスを心に迎え入れたのでした。
 今私は、その人の忠実な働きのおかげで、主イエスに出会い、それ以来、非常に恵まれた人生を歩んでくることができたと、心から感謝しています。困難は、他の人もそうであるように、今までの私の人生にも例外なくつきまといましたが、いつもそれを乗り越える力と励まし、導きを主イエスは与えてくださいました。
 それは、一人の学生の忠実な種蒔きのお陰であり、私はその人に永遠に感謝することになると思います。

今クリスチャンである人は皆、誰かから福音を教えてもらい、忍耐をもって導いてくれた人が必ずいるはずです。どうか私たちも、忠実で忍耐のある証し人となって、誰かの人生に触れることができますように。

「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。」(第二テモテ4:2)

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。
 わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」(ガラテヤ6:7-9)

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