「イエス様」抜きの成功?

j
2024年5月21日

ひとしずく808−「イエス様」抜きの成功?

  昨日、ある友人が「聖書に隠された成功法則」という本から一つ引用句を送ってくれました。それは、「喜んでいること」を如何に神様が望んでおられるかということ、またそれが人間関係を改善することにどれほど役立つかということが書かれていました。

考えてみると、人間関係や人生における成功のために利用できる聖書からの法則は数多くあります。たとえば・・・

*見えないものを見えるかのようにして歩む「信仰の法則」<ヘブル11:27>

*聞くだけではなく踏み出す時に祝福がもたらされる「アクションの法則」<ヤコブ1:22,23, マタイ7:24>

*まず与えることによって与えられる「豊かさの法則」<ルカ6:38>

*物事は信じたとおりになる「夢実現の法則」<マタイ8:13>

*自分の量るそのはかりで量りかえされる「鏡の法則」<マタイ7:2>

*一心に求めるなら与えられる「集中の力の法則」<エレミヤ29:13>

など、すぐに思いつくだけでもこれだけあります。

皆さんも、聖書の中からたくさんの法則や摂理を見つけて、それを人生の糧にしていることと思います。

「まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。

・・・その人は何をしても栄える。」(詩篇1:2、3)

とあるようにまさに聖書は、あらゆる神様の知恵、また摂理、人生を豊かにする法則の宝庫です。

私たちは、摂理や法則を示してくれる神の御言葉から、ものすごい益を受けています。主は、愛の神であられ、私たちが天の豊かさに預かることを望んでおられるのです。元々イエス様が天を去り、地上に来られたのも、私たちが天の豊かさに預かるためでした。何という愛でしょう!

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」(コリント第二の手紙8:9)

ところで、現代では、聖書に記されているこうした素晴らしく神様の恵みに満ちた法則から、たくさんの益だけを受け取り、神様を認めようとはしないというようなことがあるように思えます。人生の成功に関する本やセミナーなどに時折見られるのですが、聖書の言葉を引用し、その法則がいかに素晴らしいかを人々に教える一方で、イエス様の名を一つも語らないのです。その根底には、神抜きの方が、自分の好きなように生きるには都合が良く、またその方が多くの人々に受け入れられるからなのでしょう。

もちろん神を信じずとも神の法則に従ってそれを利用するなら、うまく行くことでしょう。「主の恵みは地に満ちて」いて「主は善人にも悪人にも、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる」からです。しかし、たとえ神の法則を利用して、物事をうまくやりのけても、それで、真に心で納得できる人生を持てるかと言うと、そこには疑問があります。  

    人間には、自分の私利私欲を満たし、自分の思い通りに生きても、また自分の理想や夢をいくら追求しても、その心には、満たせない空虚さが残ることがあります。それは人の心には、神様しか満たすことのできない部分があるからです。

  神様は、その心の空虚な部分をご自身の愛で満たそうとされますが、押しつけようとはされません。

神様は、人が自らの選択と決断によって神様の愛を迎え入れるのを寛容と忍耐をもって待っておられるのです。しかし、だからといって、いつまでも神様を無視したり、神でもないものを神として崇めたり、また自分と自分の賢しさを誇ったりしているなら、やがては、神様は御自分が「在りて在る者」であることをはっきり示される時が来ます。創られた者がいつまでもその創り主を無視したり、知らないままでいることはできません。主が来臨される時には、誰が神様であるのか、全ての人が否が応でも知ることになります。

  愛の内に法則や摂理を創造された方に感謝し、それらの背後にあるお心を汲みとりながら生きるならば、主のご再臨にあっても、自分の人生を悔いたり、嘆いたりする事はないと思います。

   聖書にある、もう一つの法則に、神様中心の法則があります。まず、神様を第一にし、神様の御心を求め、それに従うということです。そうするなら、神様は、残りのことは、全て上手く取り計らって下さるというものです。

    それこそ、人生の最高の法則と言えるでしょう。天地を造られた方が、上手くいくことを保証して下さっています。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ 6章 33節)

イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。(マタイ22章 37節)

わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。(マラキ3:10)

他の投稿もチェック

イエス・キリストの生涯-38

イエス・キリストの生涯-38 聖書の基本4 https://ichthys.com/4A-Christo.htm ロバート・D・ルギンビル博士著 j.  最後の過越の祭り<ii>:  十字架につけられる前の最後の一週間に関して聖書は、ベタニヤでマリヤがイエスに油を注ぐことから始まり(すなわち、ヨハネ12章1節の「6日間」)[1]、そこに起こるほとんどすべてのことは、イエスがこの初降臨の最終段階を通して弟子たちに予告しようとしてきた本質的な真理を前もって示す役割を果たしています(例えば、マタイ16章21-26節,...

イエス・キリストの生涯-37

イエス・キリストの生涯-37 聖書の基本4 https://ichthys.com/4A-Christo.htm ロバート・D・ルギンビル博士著 2) イエス・キリストの教えるミニストリー<vii> j.  最後の過越の祭り<i>:  主の三年半のミニストリーの最後の年は、しばしば 「対立の年」と呼ばれます。それは主が、ユダヤの政治的・宗教的支配層(すなわち、サドカイ派とパリサイ派)からの敵意が顕著に強まるのを経験されたのが、前の過越の祭りと最後の過越の祭りの間だったからです。...

イエス・キリストの生涯-36

イエス・キリストの生涯-36 聖書の基本4 https://ichthys.com/4A-Christo.htm ロバート・D・ルギンビル博士著 2) イエス・キリストの教えるミニストリー<vi> e) イエスの教えの形と内容: イエスはロゴスであり、人格を持った神の生きた言葉です(ヨハネ1章1-14節)。 さらに、神の真理の内容は聖典の中で(聖霊によって伝えられる)「キリストの思い」と呼ばれています(第一コリント2章16節)。...