聖書の中の偉人たち

j
2024年5月16日

ひとしずく1556-聖書の中の偉人たち

 有名な人の生涯を見て、その数々の偉業に、凄いなという印象と圧倒される思いを抱く事があります。しかし、そこからいくらか学べることはあるものの、励ましを受けるより、自分にはそんなこと、とてもできそうにないとがっかりしてしまう場合があります。

 反対に、偉大な人たちの失敗や罪を見る時、こんな偉大な人でも罪深いところがあり、それにも拘わらず、神様は彼らを赦し大いに用いられたのだとわかると、とても励まされるのではないでしょうか。もしかしたら、自分にも希望があるかもしれない、と。

聖書には、そのような偉人たちの罪や弱さまでも、書かれていますが、それらは、神の見解です。

「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」(第二テモテ3:16) 

普通、人が自分のことや他の人のことを書いたのであれば、自分や人が何をしたか、どんな業績を収めたかなど、人の考えや行動が中心に書かれます。しかし、聖書には、その人がどのように神に用いられたか、また神がその人に対してどう働かれたかが記されているのです。

 したがって、たとえ聖書を書いたのが人であっても、それを霊感したのが神であるので、人の間違いや、罪深さをも著すように導かれるのだと思います。神の霊は、私たちに罪を正直に告白すること、神様の御前では、自分はただの罪深い人間に過ぎないこと、自分が生きていられるのは、ただ神の憐れみ、恵みによるのだということを明白にするように導かれます。それで、聖書の記述は、励ましに満ちているのです。 

聖書に記されている人物の幾人かの罪と、またその罪びとが神にどのように用いられたかを見てみましょう。 

アブラハム:自分の身の安全のために、二度も自分の妻を妹だと寄留先の王達に偽り、妻を差し出した。(しかし、結局その嘘は暴かれ、妻は返された。)にもかかわらず、神はアブラハムを祝福し、多くの国民の父とし、カナンの地を永遠の所有として与えるとの契約を立てられた。(創世記12章、20章、17:4ー8) 

ヤコブ:兄エサウの長子の権利を欺いて奪う。それによってエサウに命を狙われ、叔父のラバンのもとに逃げるが、ラバンに何度も騙されるという試練を味わう。しかし、そんなヤコブから、イスラエル12の部族となる子供達が生まれる。(創世記27―35章)

モーセ:エジプトの王子だった時に、人を殺め、ミデアンの地に逃れた。80歳になってから、神からの使命に与り、エジプトで奴隷とされていた何百万ものイスラエルの民を約束の地へと導く。(出エジプト記)

ダビデ:人妻であるバテシバを、自分のものとするために、彼女の夫が戦争で命を落とすように取り計らい殺してしまう。その罪を預言者に暴露され、その罪ゆえに生まれて間もないバテシバとの子供を失う。そして、ダビデはその罪を心から悔い改め、赦されて繁栄し、その子ソロモンにその王国の繁栄が受け継がれることになる。(サムエル下11―12章 )

 ここにあげた人たちは皆、神に用いられ、称えられている人たちですが、聖書を読むと、その人たちが、嘘、殺人、略奪と、あらゆる悪行をしてのけたことが記されています。それでも神がこれらの人たちを用いられたのは、神がそれらの悪行、間違い、罪深さを気にしなかったからということではありません。この人たちは、それらの罪や不従順を、神に対して心から悔い改めたことにより、神の赦しを経て、かえって神は彼らの弱さや罪深さゆえに謙った彼らを用いられたのです。ですから、彼らの偉業の栄光は、彼ら自身にではなく神に帰されるべきものなのです。

 こうして見てみると、どんなに自分の罪が深くても、また今までどれほど数多くの間違いを犯してきたとしても、こんな自分にも希望はある、と励まされるのではないでしょうか。そうです、神は聖書を通して、明確に私たちにも希望があることを示されているのです。ただ、私たちが謙り、神への信仰があるなら、神は私たちをどんな事にも用いる事ができるのです。

「肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。

もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。なぜなら、聖書はなんと言っているか、『アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた』とある。いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、『不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。罪を主に認められない人は、さいわいである』。」(ローマ4:1-8)

 

「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(ローマ3:21-24)

 「それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである。」(第一コリント1:29-31)

他の投稿もチェック

さまよえる群れ

ひとし ずく827-さまよえる群れ 以前、都内で大規模防災訓練が行われました。 震災に 遭ったと仮定して、一時避難所へ携帯メールを通して、避難するという訓練でした。しかし、その多くの人が臨時に設置された指示経路からの 情報をどうやって受け取ることができるか、わからなくて迷っていました。 ぞろぞ ろ歩いていく人の群れに「今、どこに向っているんですか?」とインタビューすると幾人もの人が「わからない」と答えていました。そして...

イエス様を受け入れるか否かの選択

ひとしずく819-イエス様を受け入れるか否かの選択 バイブルクラスに参加していた一人が、イエス様に出会って救われる前と、救われた後では、色々な事に対する見方が違うと話していました。たとえば、クリスチャン作家の映画や小説は、救われる前は、大変退屈なものだったけれども、救われてからは同じものでも、全く違った意味深いものになったということでした。 私もその通りだと思いながら「イエス様を受け入れるか否かの選択」がもたらす大きな違いについて考えたのでした。...

光を灯して

ひとしずく811 光を灯して <ある夜遅く山道を運転していた時のこと:> …山道にさしかかった時には、もう真っ暗になっていました。他に通る車もなく、その道には全く街灯がありません。山のカーブ道が続き、ある所は片側が谷になっている所もあり、しかもガードレールもない部分もあるので、一歩間違えたら、それこそ命取りです。 この暗闇の危険な道で、唯一頼りになるのは車のヘッドライトです。その光が、道の中央線や路側帯のラインやガードレールを照らし出してくれ、行くべき道を導いてくれるのです。...