ひとしずく1542-村のお祭り
秋田に引っ越して、もう三年目となり、近所の人たちとも大分、親しくなってきました。
今朝も道端に腰を下ろして包丁を研いでいるおじいさんと少し話をし、「近くだけれども、誰も知らないミズ(山菜の一種)があるところを知っているので、来月、声をかけるので、一緒に行きましょう」、と誘って頂きました。そのおじいさんは高齢になり、今は足が不自由で、一人で山には行けないそうです。
外に出れば、このように色々な人と会話を交わし、大分顔見知りが多くなりました。そしてこの地域のいくつかの行事に参加したり、冬には雪かきを頼まれたりと、私たちの家族も次第にこの土地に溶け込んできています。
しかし、一つだけ困ることがあります。それは神社の行事がある時です。もちろん私たちは、神社に祀られた神に対する信仰はありません。したがって、お祭りに参加することはありません。しかし、この地域の人たちと親交が深まるにつれ、何かと頼まれ事も多くなってきて、今年はお神輿を担ぐのを手伝ってほしいと言われていたのです。都会と違って田舎では、お祭りに皆が参加し協力するのが当たり前のことと考えられています。特に、私たちの住む地域は、お年寄りが多いので、お神輿を担ぐ人を探すのに大変なようです。そして、祭りの担当である大工の友人に、私や息子にお神輿担ぎをしてくれるよう、声をかけられていたのです。
人口が少なくなっていく一方の中で、この地域の人たちは、昔からの伝統行事だけは継続しようとして頑張っています。なので、何とか助けになりたいと思うのは山々なのですが、やはり、主なる神以外の神を拝んだりお神輿を担いだりというのは、どうしても抵抗があります。お祭りは、もしかしたら信仰と言うよりも、村の人々との団結と親睦を深め楽しむための大切な場であるのかもしれません。しかし、やはり愛する神への信仰を妥協したくはありませんでした。というのも、この地域の何人かに証しを始めていて、そのうち彼らに、神は唯一であることを証しすることになると思います。しかし、私たちが神は唯一と言いながら、神社のお祭りで神輿をかついでいたのでは、つまずきを与えかねないと 思ったのです。
元々、神社もお祭りの色々な行事も、キリスト教に由来しているといわれ、お神輿はイスラエルの祭司たちが担いだ神の契約の箱に由来し、お神輿を担ぐ時の掛け声の「わっしょい!」という言葉もヘブル語で、「救い 来い」という意味だと言われています。そのようなことを踏まえ、自分達の思いの中で納得し、割り切ってお祭りに参加したとしても、やはり、私たちを見る人たちの中には、私たちクリスチャンは、八百万の神々の中の一つの神を拝んでいるに過ぎないと解釈する人もいるかもしれません。
ですから、やはりこういう時は、「自分の信仰は違うのです」という態度をはっきり示す事が一番大切なことではないかという結論に達したのです。
村の人たちの期待に応えるか、それとも、期待に応えず信仰をとるかの選択のように思えますが、村の人たちの期待に応えることは、お祭り以外でも、いくらでもできることだと思います。最近は周りの人達も、私たちの信仰が違うのを知って、それを次第に受け入れ始めてくれているようです。
昨日、大工の友人に会った時、やはりお祭りの日は、ちょうど東京に行かねばならないし、お神輿を担ぐことはできないことを伝えました。すると彼は、「そうか、大丈夫だよ。息子はどうだ?彼はいいだろう?」と言ったので、息子も一緒に東京に行くことを伝え、「すまないね・・・」と私が言うと、彼は「そうか、わかった。気にするな。大丈夫」とさらりと言ってくれたのです。私や息子が参加できない理由が、東京に行くということだけではないことは察していたようでした。
彼は大工の仕事で忙しいのに、御神輿の人集めを任せられていて、やってくれる人を探すのも大変だろうに、私たちが断っても、愚痴の一つも言わないどころか、私が気にしないように気遣ってくれたのです。そして、「薪小屋の屋根に使えるかもしれないトタンが、今やっている改装工事から出てくるから、あげるよ」と言って、去って行ったのでした。
こうした、この地に共に住む親切な人たち・・・。簡単なことではないけれど、彼らに、イエス様を知って信じてほしいと強く思います。彼らと同じ信仰で、主を賛美し祈り合えるなら、どんなに素晴らしい事だろうと思うのです。そのような日が来る事を願いつつ、この地での証しを、これからも地道に頑張っていこうと決意を新たにしたのでした。 どうか、聖霊によって彼らが真の神に導かれるよう、お祈りしていてください。