ひ としずく1525-空白 パート2
昨日に続き、今日はもうひとつの空白について考えてみたいと思います。それは、神からも人からも見捨てられたと思えるよ うな、試練の荒野における失われた時、人生の空白についてです。
聖書から、多くの神の人たちがこのような状況を通過したのがわかります。そうした幾つかの ケースを見ていきたいと思います。
*モーセは荒野で40年間、羊の群れを飼っていた:
「モーセはパロの前をのがれて、ミデアンの地に行き・・・妻の父、ミデアンの祭司エテロの羊の群れを飼っていた…」(出エジプト2:15)
*神は荒野でイスラエルの民をはぐくんだ:
「この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び…約四十年にわたって、荒野で彼らをはぐくみ…」(使徒13:17)
*バプテスマのヨハネが神よりの使命を受けたのも荒野においてだった:
「アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。 彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。それは、預言者イザヤの言葉の書に書いて あるとおりである。すなわち「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。すべての谷は埋められ、すべ ての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、人はみな神の救を見るであろう」。」 (ルカ3:2-6)
*パウロは大胆な宣教活動を始める前の3年間、ひとりアラビア、ダマスコにいた:
「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、異邦人の間に宣べ伝えさせるため に、御子をわたし の内に啓示して下さった時、わたしは直ちに、血肉に相談もせず、また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行った。それから再 びダマスコに帰った。その後三年たってから、わたしはケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間、滞在した。」(ガラテヤ1:15-18)
*ヨハネは流刑地パトモス島にて、黙示録を受け取った:
「わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。ところが、わたしは、主の日に御霊に感 じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。」(黙示録1:9b,10)
これらの神の先人たちは、人生の荒野の中で、より深く神と交わりの時を持ったと言えるので はないかと思いま す。植物が芽を出す前に、暗い土の中で育まれ、準備されるように、彼らは、この人生の進歩、達成、充実感、満足などに関しては空白のように思える試練の中 で、神の御用をするための大切な準備の時を持たねばならなかったのです。その準備の期間を通して、彼らは砕かれ謙(へりくだ)ること、神 以外に頼るべきものはこの世にはないと知りました。
イエス様御自身も、宣教活動を始められる時には、40日40夜、荒野で試みを受けられまし た。
「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわさ れて、悪魔の試みにあわれた…悪魔はあらゆる試みをつくして、一時イエスを離 れた。それからイエスは御霊の力に満ちあふれ・・・」(ルカ4:1,2,13,14a)
イエス様は荒野で、あらゆる悪魔の試みにあわれたとあります。飢えと渇きと極度な疲れの中 で、また捨てられたように感じる孤独な荒野で、そのような試みを受けられたのです。しかし、イエス様をこの荒野に導いたのは、悪魔ではな く神の御霊であったことを見落としてはならないと思います。それらの荒野での試練、人の目から見たら、人生の最もスランプのように見える 時期、孤独で捨てられたように思える時、また悪魔の攻撃をもろに受けている時は、実は、神様に最も近い時なのであり、神様がその人たちを 通してなそうとしているための大切な準備の時なのです。
もし、そのような時を今通過しておられるなら、この試練の時に、主は決して離れず、捨てら れないという約束 を思い出してください。そして、あきらめずに希望を持ち続けるなら、きっと、この人生の荒野、空白の時は、主の愛による育みの時であったことを知るように なるでしょう。そして、主の御霊の力にあふれて、主の御仕事のために大いに用いられるようになるのだと思います。
人生の空白で、本当になくてはならぬものを見出す事ができますように。
「そのことを思って、今しばらくの間は、様々な試練で悩まなねば ならないかもしれないが、あなたがたはおおいに喜んでいる。こうしてあなたがたの信仰は試されて、火で精錬されても、朽ちる他はない金よ りも、はるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの 現れる時、賛美と栄光と誉れとに変わるであろう。」(Ⅰペテロ1:6,7 )
「愛する者たちよ、あなたがたを試みるために降りかかってく る、火のような試練を、何か思いがけないこと が起こったかのように、驚き、怪しむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜ぶがよい。それはキリストの栄光が現れ る際に、喜びに溢れるためである。」(Ⅰペテロ 4:12,13)
「だから、神の御旨にしたがって、苦しみを受ける人々は善を行 い、そして真実であられる創造者に自分の魂を委ねるがよい。」(Ⅰペテロ4:19)
「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さった、あふるる恵みの神は、し ばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、 不動の者として下さるであろう。」(Ⅰペテロ5:10)