ひとしずく1522-新しい命の内に
古代キリスト教神学者アウグスチヌスが、ある時、昔の友人に出会ました。その時、友人は 「お前が、以前どんな生活をしていたか知っているぞ」と言いました。確かにその通りだったようです。しかし、アウグスチヌスは、「今私 は、キリストにあって別の人となったのだ」と答えたそうです。
聖書に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過 ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(第 二コリント5:17)という言葉があります。最近イースター(復活祭)がありました が、このキリストにあってということは、復活されたイエス様のものとなってということなのだと考えていました。
「わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだ をとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の 中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが 神のために実を結ぶに至るためなのである。」(ローマ7:4)とあるように、私たちは蘇られたイエス様のものとなるーここで は、自分とイエス様との婚姻関係を示しているのですが、主イエスの花嫁となった私たちは、以前の古い生き方や律法から解放され、主人であ り夫であるイエス様の願いの内に生きるようになるのです。
以前の自分の負い目、あらゆる自分勝手な行いによる償いから、主イエスは御自分の血の代 償によって解放してくださいました。犠牲を払ったのは、 私たちを御自分のものとして迎え入れてくださるためでし た。神様の御前では、罪の赦しがキリストにあって与えられているので、そのことで、償いは支払われており、神の御前では、罪赦された新し い人として、イエス様と共に歩む人生に変えられるのです。
イエス様は、私たちが主の花嫁として愛の内に成長することを望まれています。自分達のこ とをこよなく愛されている主が花婿、夫であることは素晴らしいことだと思います。主イエス様は、天においても地においても一切の権威が 与えられている真の神です。主に信頼して旅し、また旅を終える人生というのは何と素晴らし いことでしょうか?
幾多の困難も、この愛の主と歩むなら、かえってその困難は、一層、愛と絆を深めるものに なるでしょう。決して見捨てず決して離れない神様の愛に包まれて、花嫁である私たちは、もっと主に愛を捧げたいという気持ちになるので す。
主が私たちに望まれることは、決して重い荷ではありません。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあ げよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休み が与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)
主が私たちに望まれている人生は、愛の人生です。それは、神様の愛と赦しを受け入れること から始まり、他の人を赦すこと、愛をもって仕え続けること、試練の中で神を信頼しながら神の愛を信じ続けること..。キリストにあって新しく造られた者にとって、それはキリストと共に生きることです。
イエスを墓の中に探していた女たちは、み使いたちに「あなたがたは、なぜ生きた方を死人 の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」(ルカ24:5,6)と言われました。墓の中にイエス様の体を探してもあるはずがあ りません。彼は蘇られたのですから。 同じように、蘇られた主を信じた私たちも、古い生活と習 慣、慣わしという墓の中に留まっている必要はありません。また留まっているべきではありません。
墓の石は取りのけられており、イエス様が、私たちに新しい人生を生きるようにと解放して くださっているのです。私たちは古きを捨てて主がくださった新しい命の内に歩むのです。
「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたので ある。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中から よみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいの ちに生きるためである。」(ローマ6:4)
「しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解 放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。」(ローマ7:6)