真理はキリストの内に

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2024年4月9日

ひとしずく1502-真理はキリストの内に

 「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」(ヨハネ5:39,40)

 律法学者らは、一生懸命、命を得ようとして聖書を調べてはいましたが、命の君である主のもとに行こうとはしませんでし た。この言葉は、そうした彼らに対して言われたイエス様の言葉です。

現代においても、ある人たちは、聖書を学び、聖書の知識だけは豊かに蓄えていても、イエス 様御自身のもとに行こうとせずに、聖書や神について、ああでもないこうでもないと分析ばかりしています。そして自分の業によって救いを得 ようと必死に努力しているのです。

 しかし、律法学者に対して「ぶよは濾すがらくだは飲み込み」「律法の中で最も大切な愛と 憐れみをないがしろにしている」とイエス様が指摘していたように、彼らは的を外していたのです。

「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」(マタイ22:29)と言われました。

聖書はイエス様ご自身を指し示し、救いに来られているイエス様について証ししているのに、 自分の業によって何とか神に受け入れてもらおうと思っていた者たちは的外れだったのです。しかし、もし本当に律法が言っているところのこ とを行おうとしていたら、つまりその神髄である愛の律法を行っていたら、彼らはイエス様が言っておられたことを理解できたことでしょう。

しかし、律法学者らはモーセの律法も守ってはいなかった、ということを言ったなら、当時、 律法学者が激怒することは当然ですが、イエス様は次のような指摘をされました。

イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切 な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわた しを拝んでいる』。あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。

また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨 てたものだ。モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。それだのに、あ なたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとし て、その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言 を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。(マルコ7:6-13)

聖書の本当に言わんとしていることを知るのにイエス様を抜きにしては、できないと思いま す。永遠の命を得るために、まず神の愛を現し、救いの手を差し出してくださっているイエス様に目を留める必要があります。
 「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」(ヨハネ1:18)

「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであっ て、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(マ タイ9:12,13)

イエス様は、神様の寛容さ、憐れみ優しさを人々に知らせ、救いの手を差し伸べるために、地 上に降りて来られたのです。

「律法を破った、奴を裁け!石撃ちにしろ!」という叫びをよそに、イエス様は罪人のそばに 来られ触れてくださるのです。

何という大きな愛でしょうか。この愛に生き、またこの愛を伝えるなんて、とても人にはでき ないと思ってしまいます。しかし、どういうわけか神様は私たちにその任務を授けられました。 人よりもはるかに大きな力をもっている天使 達にではなく、私たちに委ねられたのです。
そのことの重さを考えさせられます。しかし誰も律法を完全に守る人、成就させることのできる人などいません。イエス様は私 たちが律法の神髄である「愛」に生きる事ができるように私たちの内にあって生きて下さるのです。

このイエス様に目を留めて、神の御霊に導かれ、神のために実を結ぶ者となれますように。

 「わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだ をとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが 神のために実を結ぶに至るためなのである。しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたち
は律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊 によって仕えているのである。」(ローマ7:4,6)

 「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」(ヨハネ3:17)

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成 就するためにきたのである。」(マタイ5:17)

「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」(コロサイ2:3)

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