赦しなさい

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2024年4月8日

ひとしずく768-赦しなさい

 私たちがもし、人や物事をもっと

イエス様の目を通して見ることができるなら

些細な事に憤慨することはないだろう


イエス様の目は罪深さを見越す目

イエス様の目は隠された宝を探し出す目

「まず自分の目から梁を取りのけるがよい」

とイエス様が語られたことからして

私たちはかなり偏った見方をしている可能性がある

私たちは裁きやすい傾向があり

また裁いてしまう性質が根強いのだと思う

パウロはこう言った

「わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう・・・」(ローマ14:13)

最終的に裁きを行う方は

私たちではなくイエス様である


「(神は)子(イエス)にさばきを行う権威をお与えになった。」(ヨハネ 5:27)

そして、忘れてはならない

全ての人は、その裁き主であるイエス様が

ご自分の血を流して贖ってくださったほどに

大切な魂だということを

なのに、人を裁く私は一体何者なのか?


「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」(1ヨハネ 2:2)


「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」(ローマ 14:4)


イエス様は

裁きを怖れて神様のもとに来ようとはしない人たちに

私は罪人を救うためにこの世にきたのだと、優しく手を差し伸べられている


「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ 5:32)


「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、
この世が救われるためである。」(ヨハネ 3:17)


福音、すなわち、良き知らせとは

「あなたの罪は御子のあがないによって赦された」ということであると思う

イエス様は裁き主であるにも拘わらずこう言われた

「あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。」(ヨハネ 8:15)

だから私たちの態度もイエス様のように

「私は誰をも裁かない」という態度であるべきだと思う


「あなたは神に受け入れられています。あなたの罪は赦されました。

私もあなたを赦します。そしてあなたを受け入れます

あなたは神様にとても愛されていて大切な存在ですから」

誰に対してもそう言えるなら、どんなに心は平安であることだろう?

私を赦し、あがなってくださった主は

私にも「他の人を赦しなさい」と言っておられるのだから

(マタイ18:21-35参照)

「人をさばくな。自分がさばかれないためである。
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。

そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイ7:1-5)

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